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Sunday, April 3, 2022

文学者は戦争下をどう生きたのか 「過去に学んで」 青学大・小松教授が出版 - 東京新聞

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 万葉集と関わりの深い近代日本の文学者が、戦争の時代をどう生きたのか。青山学院大教授の小松靖彦さん(60)=写真=は、著書『戦争下の文学者たち−「萬葉集」と生きた歌人・詩人・小説家』(花鳥社、三五二〇円)で、与謝野晶子(一八七八〜一九四二年)らの作品や時代背景をたどり、明らかにする。再び戦争への道を歩まぬための歴史的教訓を得るためだ。 (北爪三記)

◆万葉集 戦意高揚に利用

 本書が取り上げたのはほかに、歌人の齋藤瀏(りゅう)(一八七九〜一九五三年)、半田良平(一八八七〜一九四五年)、今井邦子(一八九〇〜一九四八年)、詩人の北園克衛(かつえ)(一九〇二〜七八年)、小説家の高木卓(たく)(一九〇七〜七四年)。現在ではなじみの薄い人もいる。

 小松さんは「万葉集を国の象徴と考え愛国者として通した佐佐木信綱や斎藤茂吉がいて、反対側に堀辰雄が存在する。その間で右往左往するのが当時の一般的な文化人なので、それを見ておきたいと考えたんです」と人選の理由を説く。

▽忠君愛国の精神

 戦時下で、万葉集は「忠君愛国」の精神を示すものとされた。太平洋戦争の開戦時は政府からの発表に、万葉集の防人歌(さきもりうた)<今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ我は>が引用され、その後も「海行(ゆ)かば」「ますらを」といった万葉集に由来する言葉が戦意高揚に利用される。一方では、国民も苦しみや諦めなどの心情を万葉集に託した。六人はそれぞれの万葉観を持ちながら、戦争遂行に加担していくことになる。

▽与謝野晶子も

 例えば、与謝野晶子。日露戦争に出征した弟を案ずる詩「君死にたまふことなかれ」を作り、第一次世界大戦中の評論では<国家主義の上に築かれた国家は、個人と衝突すると共に他の国家と衝突する。即(すなわ)ち戦争の予想される不安定な国家である>と鋭く指摘した。にもかかわらず、日中戦争以降は<強きかな天を恐れず地に恥ぢぬ戦をすなるますらたけをは>のような戦争賛美の歌を詠む。

 晶子の変化で小松さんが注目するのは、日本の軍部の謀略によって上海で日中両軍が衝突した第一次上海事変(一九三二年)だ。これを受けて発表した詩「紅顔の死」で、晶子は中国側の若者の戦死を悲しみ、その司令官を批判する。「人道主義、人類主義を唱えた晶子でも、なぜ中国側が激しく抗戦したのかを理解しようとせず、指導者の批判に向かっていく。それがとても残念なんですね」

▽児童向け雑誌に

 前衛詩人北園克衛は、児童向け雑誌「週刊少国民」に、日本を守るため米英と戦うよう鼓舞する詩「紀元節」を掲載。銃を手にした子どもたちの絵が詩を飾る。「初めて見た時は衝撃でした。大人向けなら慎重に言葉を選ぶ人が、子ども向けには無防備に作品にしてしまう。子どもに戦うことを勧めた罪深さは忘れてはならないと思います」

児童向け雑誌「週刊少国民」1945年2月4日号に掲載された北園克衛の詩「紀元節」(小松さん提供)

児童向け雑誌「週刊少国民」1945年2月4日号に掲載された北園克衛の詩「紀元節」(小松さん提供)

 執筆のきっかけは、新元号「令和」の発表だった。漢籍ではなく国書を典拠にしたいとの首相の意向のもとで、万葉集が政治利用されたと小松さんは受け止めた。「万葉学史」を研究する身として「戦中のことをいま、考えておかなければ」と二〇二〇年度の講義で六人を取り上げ、それをまとめたのが本書だ。

 終章「<報国>という誘惑」を書く上で、ヒントになったのは「なぜこの人たちは国というものにこだわるのか」という学生たちから挙がった疑問だった。「戦争の中で『国を守らなくては』という意識が強くなっていく時、彼らの言う『国』とは、国体の思想、統治組織としての国家、国民、国土、歴史的・文化的な共同体、これらが混然一体となっていたのです」

▽ウクライナに思う

 過去の歴史が、世界で続く戦争を考えるきっかけにもなればと、刊行して四カ月余り。ロシアによるウクライナ侵攻という事態に、小松さんは考える。「戦争は人間が起こすこと。なぜ起きたのかをよく知り、起こらないよう監視することや戦争を収める道筋を学んでおくことが必要なのだと思います」

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