30年以上前、バセットはイェール大学の芸術修士号を手に、ロサンゼルスへとやってきた。彼女がニューヨークを離れたのは1988年10月、西海岸の映画界が自分をキャスティングしてくれるのを待ち続けたあげく、業を煮やしての行動だった。
西海岸への転居はリスクを伴うものだったが、公民権運動が盛んだった時代のフロリダ州セント・ピーターズバーグで育った彼女が、誓いを実現するためには必要な行動でもあった。バセットは数世代の家族がともに暮らし、伝統を受け継ぐコミュニティで大きくなった。子ども時代は教会に通い、日曜になると祖父母や曾祖父母とともにディナーのテーブルを囲んだ。厳格な聖歌隊の指導者からハーモニーと規律を教えられ、夏になれば姉妹でノースカロライナ州を訪ね、大学で教えていたおばのゴールデン・バセット・ウォールとともに過ごした。
一家が「一大決心」の末に、セント・ピーターズバーグで初の公営住宅だったジョーダン・パークに引っ越したときのことを、バセットは思い返す。母ベティはこのとき、離婚を経てニューヨークから実家に戻り、自立を目指していた。「2人の娘を育てながら自分もスキルアップを図り、生活していくのは大変だったはず」と、バセットは当時の母親について語る。「日々の仕事を終えて帰ると、疲れて眠っているような母でしたが、学校の先生から『アンジェラには大きな可能性があります』と言われると、母は夜間学校に通って速記者になる勉強をしていたんです」と彼女は振り返る。
子ども時代のバセットは、成績が悪いと叱られた際にはこう主張したこともあったという。「お母さん、Cは人並みでBは人並み以上、Aは特別できるってことなの。だから、私は人並みだってこと!」と。だが、娘にそう言われた母は、「でも、私の子どもが人並みのはずがない」と応じたという。
雷に打たれたような衝撃を受けたバセットは、それ以来、この言葉を胸に抱き、その教訓を仕事や恋愛に生かしてきたという。「自分のことをよく考え、より高い水準を保てば、それにふさわしい人になれるということです」と彼女はその意味を解説する。
バセットが自身の目標、得意分野を見つけたきっかけは、校外学習だった。ワシントンDCにある文化施設、ジョン・F・ケネディ・センターで演劇の上演が終わり、係員が座席の周りに捨てられたチラシを掃除する時間になっても、15歳のバセットはまだ席から動けず、泣きじゃくっていた。この日の演目はジョン・スタインベックの名作『二十日鼠と人間』で、映画界と演劇界の両方で活躍した名優、ジェームズ・アール・ジョーンズが主役のレニーを演じていた。
「今、思い出しても涙が出そうです! ものすごく悲しいのに、最高の気分だったんです」と、彼女はこのときの気持ちを語る。そして人生の悲喜こもごもを感じさせるソフトな声で、こうつけ加えた。「『これって人生そのものだ』って」
ジョーンズの演技を見て“スイッチ”が入ったバセットは、この瞬間に俳優になることを決意。そして家に帰ると、彼女は演技を始めた。さらに、セント・ピーターズバーグにある大学、エッカード・カレッジで、低所得層の生徒の大学進学を支援するプログラム、アップワード・バウンドのディレクターを務める人物(バセットの言う「エンジェル」の一人)からの勧めもあり、イェール大学に出願。見事に合格を果たすと、アフリカ系アメリカ人研究で学士号を、さらに演劇で修士号を獲得した。
このような経緯を経て、ロサンゼルスにやってきたバセットだが、自分に与えられる役柄について、何の幻想も抱いていなかった。「主人公や主役級、その次に名前が載るような主要な役柄を演じられるわけはないと思っていました。主人公の友人の妻の娘、くらいの役だろうな、って」と彼女は言う。だが「俳優として仕事をしたい」「チャンスを得たい」という強い気持ちを持っていた彼女は、挑戦を前向きに楽しんだ。将来に向けた種をまくつもりで挑んだロサンゼルスでの6カ月間は、バセットにとって、多様な仕事を生み出す「キャリアの泉」となった。センセーショナルなもの、威厳のあるもの、転機をもたらすものなど演じたキャラクターは実に多様だ。こうしてバセットは、役者として開花のときを迎えた。
私がバセットにインタビューしたのは、16歳になったバセットの子ども、双子のブロンウィンとスレイターの新学年がちょうどスタートした週だった。バセットはスケジュールを調整して二人を学校に送り、さらに授業の前にはスターバックスにも立ち寄って、子どもたちのお気に入りのドリンクも購入していた。双子たちの話になると、彼女の表情はとたんに柔和になる。「ほんとに素晴らしい子たちです。とても優しくて思慮深く、感謝の念に満ちています」と彼女は我が子について語る。
感謝の念を忘れず、自分の務めを果たす子にしたいというのが、夫のコートニーと彼女の方針だった。そのため子どもたちは1歳6カ月のころから自分の寝るベッドの支度をし、成長したのちも自分の着た服の洗濯や、バセットが料理をしたあとの皿洗いを担当してきた。「コートニーのようなパートナーがいてくれて、とても助かりました。彼ったら本当に……世話を焼きすぎるんです!」と彼女は言う。「ヘリコプター・ペアレント(過干渉な親)って、まさに夫のことです。子どもたちにはいつも言ってるんです」と言って彼女は、声をひそめる。「お母さんといると楽しいわよね。お母さんはあなたたちの好きにさせてあげるから。だって、お父さんはヘリコプターでしょう?」と。
それでも、多忙を極める俳優と母親という二つの役割を(母としての務めを果たしていないのでは、という罪悪感にとらわれつつ)同時にこなす生活は、バセットにとって悩みの種でもある。「私の仕事は時間がかかるので、いつも家を空けているんです。子どもたちには『あなたたちを愛してる。でもママは仕事を続けなければならない』と説明しています。この夏には、2カ月半、ヨーロッパに行って仕事をしていました。俳優としても、人生においても素晴らしいチャンスでした。私の仕事にかける情熱や、その成果を見て、子どもたちも夢と情熱の対象に向かって突き進んでくれたら……私にはそう期待し、祈ることしかできません」
女性たちのありのままの姿に敬愛の意を表して
バセットはこれまで演じてきた役柄で、逆境を切り開くバイタリティや、キリキリするような緊迫感、人が持つ可能性、必然性や犠牲の精神を生々しく表現してきた。その役柄は、母親、夫を亡くした女性、闘士やスターなどさまざまだ。惜しみなく人を癒し、強さを発揮し、弱いものを守りながら、尊厳、配慮、保護を求める権利を毅然と主張する──彼女が演じてきたのはそんな女性たちだ。その生涯がよく知られているものの、一般的なメディアで取り上げられることがほとんどない女性たちに、命を吹き込んできた。彼女はカーテンの向こう側へと私たちを招き入れ、意図せず世界から注目を浴びた女性たちの内面を垣間見せてくれる。
そして、特に傑出した才能を発揮するのが、女王のように気高い母を演じるときだ。『ボーイズ’ン・ザ・フッド』(1991)の、離婚後に夫と共同親権を持ち、子育てに奮闘するリーヴァ・スタイルズに始まり、『ため息つかせて』(1995)の夫に裏切られたバーナディン・ハリス、公民権運動に関わったコレッタ・スコット・キング、ローザ・パークス、ベティ・シャバズといった実在の女性たち、さらには19世紀のニューオーリンズでブードゥー教の女王と呼ばれたマリー・ラヴォー、そしてワカンダのラモンダ女王に至るまで、ノンフィクション、フィクションを問わず、アメリカやアフリカの〝女王〞を演じてきた。そしてこれは私たち女性の姿でもある。彼女は人が持つ激しさや豊かな感情を余すところなく表現し、私たち一人ひとりの姿を反映させながら、まったく新しい人物像を提示してくれるのだ。
その中には、一生に一度どころか、10回以上生きて一度得られるかどうかという、希有な役柄もある。そのひとつ、ロックとソウルの世界で名をはせた不世出のスター、ティナ・ターナーを演じたことは、これまでのキャリアの中でも精神、感情、肉体、すべての面で最も厳しい体験だったと、彼女は断言する。『TINA ティナ』(1993)で、バセットはゴールデングローブ賞を獲得し、アカデミー賞でも主演女優賞にノミネートされた。その演技は、カルチャーシーンをあらゆる意味で揺さぶった。「またとない機会でした」と、彼女は今、ティナ役について振り返る。「アーティストとして求めていた要素がすべて詰まった役柄でした。俳優なら、絶対演じてみたいと思うはずです。こうした作品に出るために、演技を続けているのですから」
ローレンス・フィッシュバーンは、バセットとの共演も多く、舞台と映画の両方で高い評価を受ける名優だ。著名な黒人劇作家のオーガスト・ウィルソンの戯曲『ジョー・ターナーが来て行ってしまった』がブロードウェイで上演された際、ステージに立つバセットを初めて目にしたローレンスは「彼女の激しさ、偽りのなさ、そして言葉と存在感の両方でメッセージを伝える俳優としての力量」に心を打たれたという。また、彼女の他に類を見ない演技力を示すシーンとして、『ティナ』のリムジンのシーンを挙げた。「このシーンの彼女の姿勢、振る舞いには、静かな強さ、誇り高さ、真の力がありました」とローレンスは語る。「ひどい状況でも、尊厳や真っ当な心、強さを保てるところは、彼女の一番の強みでしょう」
『ティナ』では、ティナ・ターナー本人が映画のリハーサル現場を訪れ見学したほか、スケジュールが合わないときはアシスタントのロンダ・グラームを派遣し、バセットが必要なものはないかと尋ねる気配りを見せてくれたという。さらに「ディスコ・インフェルノ」で実際に着用した衣装を提供するとの申し出まであったとのことだ。ティナからは「あなたは完璧よ。本当に完璧」と言われたと、バセットは回想する。この言葉をにわかには信じられなかったバセットだが、そう言ったティナの心意気には感じ入るものがあったという。「私が完璧なわけがありません。でも、ティナ本人がそう言ってくれたことが、私を支えてくれました。本当に心の広い人です」
「私はそれまで、彼女のステージを見たことはなかったのですが、私よりも年上の人たちの多くは、黒人、白人を問わず見ていて、その天性の才能に大きな影響を受けていました」とバセットは語る。「彫刻のように美しいブラック・クイーンは、その才能とパワーが、毛穴の一つひとつからほとばしってきます! 思わずひれ伏し、崇めたくなります。女性はそうあるべきですし、ステージに立つティナはまさにそうした姿でした」
ここで私は話をさえぎり、「あなた自身も、下の世代にとってティナのような存在になっていると思いますか?」と尋ねた。X世代やミレニアル世代、Z世代、さらにそれに続く世代にとっての、自身の位置づけを聞いてみたかったのだ。
すると彼女は、そんなことは思いもしなかった、という様子で口をつぐんだ。さらに息をついてから、「そうだといいですね、最高です。ちょっと今、驚いています」と言葉を続けた。「自分ではわからないところもあります。私はただ、人のありのままの姿を愛し、リスペクトしてきました。自分たち女性について抱いているイメージを形にしようと努めてきただけです。自分が一貫して続けてきたことを、一歩引いて批判するのは避けてきました。ひたすらに愛し続けると決めたんです」
バトンを受け取り、バトンをつなぐ
『ブラックパンサー』でバセットと共演し、ティ・チャラの妹シュリを演じたレティーシャ・ライトは、映画『ドリームズ・カム・トゥルー』(2006)で、主人公の少女の母、ターニャ・アンダーソンを演じたバセットの姿を回想する(レティーシャにとっては、バセットがジェームズ・アール・ジョーンズを見たときに匹敵する体験だ)。「あの映画は、俳優に対する私の見方を一変させました」と彼女は振り返る。
「映画では、スペリングを練習している少女がいて、バセットが演じる母親はひたすらにその子を励まし続けます。それを見て、『私も演技をやりたい』と思ったんです。これが、私がママ・アンジェラを愛し始めたきっかけでした」(ちなみにレティーシャによれば、彼女を〝ママ・アンジェラ〞と呼んでもいい人物は彼女だけだという)
レティーシャは『ブラックパンサー』の撮影現場でバセットから最初にかけられた言葉を、今でも信じられないという口調で振り返る。それは「いつも上を向いていなさい。助けはそこから来るからです。助けをくれるのは神様です。地上の名声なんて意味がないから、とらわれるのはやめなさい。地に足をつけ、根を張り、ひたすら上を見て、神の助けを求めるのです」との言葉だった。それ以降も、バセットからは何度もアドバイスを受けたという。
『ブラックパンサー』続編の撮影でも、レティーシャは自分から今までと違った側面、神々しい存在感を引き出してくれたと、バセットを称賛する。
「撮影現場で、ママ・アンジェラの懐の深さや思いやりを目の当たりにすると、時々、うっかりしてしまうこともありました。彼女は前作に続き国の支配者なのですが、同時に兄を亡くした娘(レティーシャが演じたシュリ)をいたわらなくてはなりません。あの深みと思いやりは付け焼き刃では絶対に出せないものです。実生活でも母親であるバセットの、子どもを思う気持ちから生まれたものでしょう。今作の撮影現場では、今まで見たことがなかった、バセットの新たな強さを目の当たりにしました。本当に美しいものだと思います」と、レティーシャは撮影を振り返る。「演技に没頭しているアンジェラを見るのに夢中で、自分のセリフを言うタイミングを忘れてしまうんです……」
一方、ローレンス・フィッシュバーンは、黒人女性が主役級の役柄を演じる機会が増えたのも、バセットが演劇界に与えた良い影響だとみている。「かつてはシシリー・タイソンに触発されて、多くの若い黒人女性が演劇を志しました。バセットの出演作にも同じような効果があったと、私は思います。下の世代の女性への影響は絶大で、今では俳優たちが、バセット以前には存在しなかったようなチャンスを得ています」
そして、あらゆるバックグラウンドを持つオーディエンスにとっても、かつてのシドニー・ポワチエのように、バセットは今、究極の憧れの存在となっている。「若い男性や若い白人女性からも、『あなたに憧れています』と言われると、いつもうれしくなります」とバセットは言う。「これが人生の可能性なんだ。頑張り続ければいいことがある。時を経て、人の考え方が変わってきているのは、素晴らしいことです」。彼女の言うとおりだ。時代は確実に前に進んでいる。
最近、バセットは夫とともに、ジェームズ・アール・ジョーンズを訪ねた。彼に「あなたがすべてのきっかけでした」と伝えられたことは、この上ない喜びだったという。
ジョーンズが主な活躍の場としてきた舞台は、彼女にとって、今でも出演したい場ではある。「ぜひ戻ってみたいと思っていたし、そのチャンスもあったのですが、そこでコロナ禍が起きてしまって」と彼女は残念がる。
バセットが最後に舞台に出演したのは2011年。カトリ・ホールの戯曲『ザ・マウンテン・トップ』で、キング牧師を演じるサミュエル・L・ジャクソンの相手役、カマエを演じた。当時は子どもが就学前で実生活でも母親として忙しくしていた彼女には、オフタイムなど皆無だった。「とにかく挑戦し、声を聞かせ、姿を見てもらい、体を張る。やればやるほど良くなる。舞台は私にとってそういう場。体力と気力の勝負です」
とはいえ、舞台への復帰にはタイミングも大事で時間もかかる。そもそもブロードウェイは映画界の中心地である西海岸からかなり離れている。「子どもたちのことを考えなければなりません」とバセットは言う。「今は大人になる途中で、ものすごく大事な時期ですから。ママの声やママの愛を必要としています。朝にはママの顔を見ないとダメなんです」。それは彼女の言うとおりだろう。だが、私にも成人年齢に達したばかりの子どもがいるだけに、バセットが子を持つ母ゆえの制約から解き放たれる日は近いように感じられた。
そこで私は「今後はどのような日々になると想像されますか?」と尋ねた。子どもたちが成長し、今までとは違うチャンスがより頻繁に訪れると思ったからだ。そしてさらに、こう投げかけてみた。「あなたが80代になったころには、時代がひとめぐりしているでしょう。あなたも『殺人を無罪にする方法』(2014)のシシリー・タイソンのように、ABCのドラマに出演して娘の髪を整えてあげているかもしれませんよ」
だがシシリー・タイソンのことは、すでに彼女の頭にあったようで、「ぜひ“マ”のように続けていきたいものですね」との返事が返ってきた(“マ”というのは、シシリーと彼女が母娘を演じた『ローザ・パークス物語』(2002)で彼女を呼んでいた呼び名だ)。「ミズ・シシー、ミズ・ルビー、ミズ・メアリー・アリス、ミズ・グロリア・フォスター」と、彼女は先輩たちの名前を、敬意を込めて列挙する。「みんな、私が会い、知り、愛し、そしてもちろん、お近づきになる前も後も、感謝を捧げる女性たちです。私も、バトンを誰かに渡し、前に進み続けていけたらと思います」
この言葉こそ、アンジェラ・バセットの真骨頂だ。撮影中、彼女は小物として使われていたゴールドの円柱を、カメラに向かって突き出した──まるでバトンのように。バトンを受け継ぐことは、恵まれた者の特権であり、同時に使命でもある。母親やメンター、共演者やエンジェルと呼ばれる恩人たちから後押しを受け、力を得た者は、次の世代にバトンを渡さなくてはならないのだ。
Profile
アンジェラ・バセット
1958年、米ニューヨーク生まれ。イェール大学大学院イェール・スクール・オブ・ドラマで芸術修士を取得。舞台やTVドラマに出演。『F/X 引き裂かれたトリック』(1986)で映画デビュー。ティナ・ターナーの伝記映画『TINA ティナ』(1993)で、ゴールデングローブ賞の主演女優賞をアフリカ系アメリカ人女性として初めて受賞し、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』(2022)で、2023年のゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。1997年に、コートニー・B・ヴァンスと結婚。2006年に代理母を通して双子を授かった。
Photos: Lauren Dukoff Styling: Zerina Akers Hair: Randy Stodghill Makeup: D’A ndre Michael Production: Avenue B Translation: Tomoko Nagasawa Text: Zandria Robinson
からの記事と詳細 ( アンジェラ・バセットがゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞! 64歳の人生訓と次世代への想いとは? - VOGUE JAPAN )
https://ift.tt/u0gUlpt
No comments:
Post a Comment