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Friday, June 4, 2021

富永一朗さんの思い出|愛媛新聞ONLINE - 愛媛新聞

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 漫画家の富永一朗さんが5月5日に96歳で亡くなって1カ月。最初に訃報を報じた愛媛新聞のニュースサイト「愛媛新聞ONLINE」には多くのユーザーが訪れ、ツイッターなどの交流サイトには惜しむ声が相次ぐなど、多方面で活躍した富永さんの根強い人気をうかがわせた。テレビ番組で共演し、家族ぐるみで付き合いがあったタレントの車だん吉さん(77)が取材に応じ、テレビそのままの面白エピソードや、意外に真面目な一面まで、車さんだからこそ知る裏話を語り尽くし、在りし日をしのんだ。
(聞き手・坂本敦志)

第2回全国かまぼこ板の絵展覧会の審査会の様子。右端が富永さん。2人目が車さん=1996年

富永さんとは長いお付き合いだそうですが、最初の出会いはいつごろだったんでしょうか。  1976年、「お笑いマンガ道場」の中京テレビでの収録の時が初めてです。
車さんは絵がお上手ということで選ばれたんですか。絵はいまだにうまくないですよ(笑)。萩本欽一さんのところのスタッフがお笑いマンガ道場の構成をやるので、誰かいないかという話が出た時に、萩本さんにイラスト入りの年賀状を書いていたものですから、それを見ていて「車だん吉っていうのが描けるけど?」と勧めてくれたのがきっかけです。他に鈴木義司先生(2004年に死去)と富永先生が出演するというような話は聞いていて、番組が始まった時にお会いしたのが最初でした。
仲良くなったきっかけはありますか。ないですねえ。あの番組は和気あいあいとやっていたもんですから。冗談言ったりしてる間にということじゃないですかね。
富永さんは車さんのことを「絵がとても上手で、芸能界の人間としては人柄が素晴らしい」と話していたそうですが。  それは買いかぶりです(笑)。
車さんは富永さんのどういう人柄に引かれたんですか。  実直で、約束事は一切破ることがないし、人柄がとてもいいですね。生真面目な方でした。
富永さんは昔、小学校の教員をされていたそうですが、その影響ですかね。  どうなんですかね。鈴木先生は「富永くんは礼儀とか節度に対しては厳しいから」って言ってましたね。
性格的には鈴木さんは違うタイプなんですか。   鈴木先生は逆ですね。ずぼらって言ったら失礼かもしれませんけれども(笑)。富永先生は集合時間の1時間前に来ている。鈴木先生はぎりぎりに来る。富永先生は締め切りの何日か前にはちゃんと仕上げている。鈴木先生は時々週刊誌に穴をあけたと言っていましたね。富永先生はきちっとした絵できれいな線で描き、鈴木先生は少し太めの線でそんな細かくは描かなかった。正反対です。
その時代の富永先生のエピソードで印象に残っているものはありますか。  富永先生が深夜の生放送をやっていたころです。飲みに行った先の女性から「私、○○って名前なんだけれども、テレビで名前言ってよ」って言ったら、先生が「いいよ」って。で、生放送で「○○ちゃん、見てるかよ」ってその女性の名前呼んだら、番組クビになったって。ばかでしょう。律儀なもんですから(笑)。
真面目なんだか、不真面目なんだかですね(笑)。  真面目なんですよ。上に何とかが付くのかもしれないほど。以前、富永先生が食の関係の雑誌の仕事をやっていたんですよ。お店に行って、そこのものを食べて、絵を描いて、そのルポを書いて、というようなものを。取材は1日に3カ所ぐらい回ったそうです。テレビとかだと、そういう回る時にはちょっとしか食べないんですよね。次の店で食べられないですからね。それなのに先生は真面目に食べる。お店の人は富永先生が来るというので一生懸命頑張って料理を用意しているから「そういうことをやられるとねえ、残すわけにはいかないだろう」って。で、1軒目でとんかつを全部食べて、2軒目スパゲティをまた全部食べて、3軒目はうなぎを全部食べてって。「もうあれは死ぬ思いだった。あれで体壊したんだよ」って言ってました。本当に律儀というのか、真面目というのか。
その辺りは描かれていた漫画とは違いますね。  そうですね。跳んだりはねたり、おっぱい振り回したりの漫画とは違いましたね(笑)。富永先生の漫画の師匠になる杉浦幸雄さんという方が「富永はぺこぺこもせず、へらへらもせず堂々と偉くなった。金銭は度外視して、奮い立つロマンがあった」と言っていたそうです。あまり人にへつらうみたいなことは一切なかったですね。偉い先生でした。
富永さんが亡くなられてから、「マンガ道場を見て育った」みたいなコメントがSNSにあふれてましたけれども、番組が今も多くの人から愛されるのはどういったところだと思いますか。  柏やん(司会の柏村武昭さん)が、レギュラー陣が家族だったんじゃないかと言っていましたね。親がいて、長男がいて、次男がいて、娘がいてみたいな。だから見ている人が家族で見られる。富永先生のおっぱい漫画でも健康的なお色気みたいな感じで、小さい子も「学校から急いで帰ってあれを見ていた」という人がいましたからね。親としても、これはみんなで「あはは」と笑って見られる番組だなという安心感がありましたね。
それから富永先生が言っていましたが「大体こういう番組をやっていると中に1人、2人は嫌なやつがいるんだけれども、ここにはいないんだなあ」って。長く続いたということは、そういう雰囲気が画面から伝わったのかもしれないですね。富永先生と鈴木先生がバトルしていても、あれは本当は仲がいいってところが見えて。だから長く見ていられたんじゃないかな。

ギャラリーしろかわ(西予市)の「全国かまぼこ板の絵展覧会」で、車さんが審査員をされたのは富永さんの依頼だと聞きました。  2回目からですね。富永先生から「こういうところがあるんだけれどもやる?」って電話をもらって。「松山からえらい遠いんだけどさー、行く?」なんて。実際まだ高速道路があのころはちゃんと通っていなかったから大変でしたよ(笑)。

第6回かまぼこ板の絵展の審査の様子。右端が車さん。中央が富永さん=2000年6月

富永さんと、かまぼこ板の絵展に関するエピソードは何かありますか。  富永先生は作品を見て悪く言うことはなかったですね。どこかいいところを見つけて「これは何とかだけど、ここはこうだね」っていうような審査をしていましたね。自分よりうまいと「俺はこれはとても描けないね、うまいねー」とかね。そういう感じでしたね。
ただ、子どもの作品だと、おおらかに描いているといいねってなっていましたけれども、逆に絵画教室に通っていたりとか、親御さんが手伝ったりというのが分かる作品には「これは子どもの考え、成長を邪魔している」と。才能がどこにあるか分からないわけで、伸びていく才能を摘んじゃうっていうのは、大人がいいと思っても逆効果だよと言っていましたね。
あと、曽我八千代さん(八幡浜市)という、もうお亡くなりになったんですが、その女性の方が2回目からずっと応募していて、100歳を超えて104歳ころまで応募してくれていたんですかね。毎回その人の作品を見ると「もう八千代ばあちゃん。僕の憧れで、僕の目標だから」って言っていましたね。「八千代おばあちゃん頑張れ、俺も頑張る」って。

車さんが富永さんに最後にお会いしたのはいつになるんでしょうか。  最後に会ったのは一昨年でした。富永先生の誕生日のプレゼントを持って行った時です。その後新型コロナウイルスが拡大して、マスクが入手困難な時にマスクを送って、先生から電話があって「この時期ありがたいよ、うれしいよ。こういうのが一番だよ」って電話をもらったのが最後でしたね。年に何回かお邪魔していたんですけれども、コロナが落ち着いてからと思って行かなかったのが心残りですね。まだまだ元気でと思っていましたから。

いま、富永さんにお伝えしたい言葉がありますか。  富永先生は、とにかく漫画と懐メロと奥さまでしたからね。この三つがなければ生きていけなかった人です。漫画は60歳になって週刊誌の連載を一切お断りして「人生の終着駅が近づいたら好きなことだけやる」と言ってましたね。それで「富永一朗漫画集」というマンガ道場とは違ったものを描いて、あちこちに寄贈していました。
好きな絵を描いている時の楽しさっていうのはないって言う人ですもの。アイデアはいくらでもある。次何描こうかワクワクする、ドキドキしちゃうって。生前「うんと生きて一枚でも多く描きたい、一冊でも多く本を出したい」って言ってましたけれどもね。それができなくなっちゃって残念でしょうけれども…。
でももう、とにかく漫画は天職だって言ってましたから。あちらへ行って思いっきり、アイデアが枯渇するまで、腕が折れるまで、お描きになってください。もっとこちらで見たかったですけれどもね。

車だん吉さん(浅井企画提供)

 くるま・だんきち 1943年東京都生まれ。バラエティー、ドラマ、ドキュメンタリー番組レポーターなどで幅広く活躍。富永一朗さんとは中京テレビ「お笑いマンガ道場」(76年4月~94年3月)で18年間共演した。富永さんの紹介で審査員になったギャラリーしろかわ(西予市)の「全国かまぼこ板の絵展覧会」では、2010年から審査委員長を務める。

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