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Saturday, May 1, 2021

「歩く姿を後ろから見ていても、数学者だなってわかるんです」津田一郎先生には何が見えている?|世にも美しき数学者たちの日常|二宮敦人 - gentosha.jp

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天才的頭脳をもつ彼らの日常は、凡人と以下に違うのか?

知的で、深くて、愉快で、面白い!と話題になった世にも美しき数学者たちの日常の文庫化を記念して、本文を公開!

第四回目は、「数学は心だ」とおっしゃる津田一郎先生。数学と心がリンクするイメージのなかった二宮さんははたして……。

*   *   *

数学は嫌いになるはずがない、自分そのものなんだから
津田一郎先生(中部大学教授)

ロマンティック数学ナイトをきっかけに、僕は数学の裾野の広さを知った。数学はいろんな人に愛されているし、それを自分の人生のすぐそばに置いている人も少なくない。

一方で、改めて数学者というのは特別な存在なのだと感じた。

なろうと思ってなれる職業ではないのだ。堀口さんも、タカタ先生も、松中さんも、他の道を探した。数学について知れば知るほどそのすごみが見えてくる。

僕たちは数学者に会いに行く旅を再開した。今ならもう少し、彼らのことがわかるかもしれない。

(写真:iStock.com/francescoch)

数学者は背中に出る

「数学者はね、歩く姿を後ろから見ていても、ああ数学者だなってわかるんですよね」

津田一郎先生の研究室には穏やかな時間が流れている気がする。中部大学春日井キャンパスは緑に囲まれた高台にあって、中でもこの研究棟は見晴らしが良く街を一望できた。室内には本棚がずらりと並べられ、そんなに広くはないが気持ちが落ち着く。それは津田先生の物静かな話し方とも無関係ではないだろう。

放課後に図書室に行って司書の先生と話すような気分で、僕は父と近い年齢のカオス理論研究者、津田先生にインタビューをしていた。

「たとえば名古屋大学で学会があるとするじゃないですか。いっぱい学者がいるわけだけど、ああこの人は数学会に来た人だなとわかる」

「仕草なんかで判断するんですか?」

「歩き方とか、バッグのかけ方とかですね。こう、きちんと両肩にかけて、まっすぐ歩いているつもり。目的地に行くぞ、という風情が背中に出ているんです。自分はこういう目的で、この角を曲がって、こっち行って、大学に入るんだとか。寄り道するとしても、そこに綺麗な花が咲いているからそれを見に行くんだとか。一つ一つオーラが出ているというか、明確なんです」

「確固たる意思を持って、寄り道をするわけですね」

「そうです。物理学者はそういうのはないですね。ランダムウォークに近い」

もともと物理出身である津田先生には、違いがよくわかるという。

「あとは黒板の使い方。チョークの持ち方、文字をはねるそのはね方、いかにも数学者然としているんです。数学会のような場所では、我々応用数学はスライドを使うことも多くなってきましたが、代数のセッションなんかを覗くといまだに黒板にガーッと書いて証明してますね。あの感じは物理にはない」

「黒板をただ道具として使う、というのとは違うんですか?」

「魂が入っているんですよ。黒板にチョークで書くことと、思考することが一体化してしまっている。何かが乗り移って神がかり的になるんです。そのまま黒板の中に消えていってしまうんじゃないか、というような印象でね」

見ているだけでも楽しいですよ、内容がわからなくても。

そう言って、津田先生は柔和に微笑んだ。

数学者という言葉にはいろいろなイメージがつきまとう。変わり者、真面目、数字が異様に好き、ストイック、人嫌い……偏見もあるとは思うが、そんな印象はどこから出てくるのだろう。

聞いてみると、津田先生はやや眉根を寄せた。

「とにかく一切、人に会いたくないという人はいますね。もちろん全員ではありませんが。そういう人は、自分の時間を邪魔されたくないんですよ」

「でもそれじゃ、仕事が成り立ちませんよね」

「うん、だから困った人ですよね。何にもやりませんって言うんですよ。言い張られちゃうと、こちらも無理にはさせられないでしょう。委員会などの仕事は他の人がかぶるとしても、『授業くらいはやってください』とある先生が言ったんですよ。一応了解してくれたんですが、ダメなんです」

「ダメとは?」

「授業を忘れているんです。あまりにも集中しすぎて、その時間に来ないんですよ。結局その先生、大学は向いていないということで研究所に行かれましたね。やる気は満々なんですけど、授業の前に考え事を始めたらもうダメ。その世界に入っちゃって、出てこられない」

「すごい集中力ですね」

「実験室とか研究室とかいうと、”外にあるもの“だと思いますよね。でも数学という学問では、頭の中に実験室があるんです。他の学問と比べても、内側への意識が強い、自分の中に向かわざるを得ない。人付き合いが悪い、と言われても致し方ないところがあるんですよね。だから時々変わった人はいます」

「たとえば、どんな人ですか」

「講演でも講義でも、それが天皇陛下の前であっても、必ず自作の歌を歌うとかね。その人の作った素数の歌というのがあって。その方、立派な先生なんですよ。天皇陛下にお会いしたのも、何か賞をもらった時だと思いますから」

唖然としてしまう。無邪気な子供のようだ。

「本人に悪気はないんですよね」

「そう、悪気は全くない。意図的にサボるとか、意地悪でやっているとかじゃないんです。

数学者で悪気がある人って、滅多にいないですよ。研究者としてはそういう人が一番少ない分野じゃないですかね」

「何だか平和そうだなあ。喧嘩もないですか」

「喧嘩はありますよ。見解の相違や誤解から感情的になることも。数学者ってピュアなだけに、思い込みが激しかったりしますから。一度この人は悪と決めたら、そう簡単には覆らない。喧嘩したら修復が難しいタイプかもしれませんね、数学者って」

「数学者って、対立しても冷静に議論するのかと思ってましたが……」

「意外と冷静じゃないです。もちろん文脈によってというか、意味のない喧嘩はしませんけど。その人にとって大切な部分で誤解があると、こじれちゃいますね」

自分の気持ちに正直、ということなのだろうか。津田先生はじっと僕を見つめながら頷いた。

「数学という学問は、誠実という言葉が非常に当てはまる学問だと思います。インチキは絶対できないから。やろうとしてもできないようになっているんです。誠実にならざるを得ないし、誠実にやれない人はたぶん、数学者には向いてない。だから数学者は変わった人も多いけど、基本的に誠実です」

確かにこれまでお会いしてきた方も、そういう印象だった。やり取りがうまくいかないとしてもそれは伝え方の問題や、こちらの知識不足が原因であって、嘘をつかれるとか、誤魔化されるようなことは一切なかった。

しかしどうして、そんな誠実な世界ができたのだろう?

(写真:iStock.com/benjaminec)

数学の最初は”心“の問題だった

津田先生は面白い話をしてくれた。

「たとえば幾何学はナイル川流域の区画整理から生まれたと言われています。と言うと実用的な気もしますけど、区画整理する必然性って実はそんなにないんですよ」

「え、そうですかね?」

ふふふと津田先生が笑う。

「だって、放っておいたっていいじゃないですか。でも人間は隣の土地と自分の土地と、比べてこっちの方が大きいとか、こう違うとか、いろいろと言いたくなるものだと思うんですよ」

「実用性ではなく、純粋に言いたくなると。でもそれはちょっとわかりますね」

「そうするとじゃあ確かめてみるか、しかしどうやって測る、という話になる。そこから幾何学が生まれたんですね。また、土地など不規則な形の大きさを測りたい、という欲求から面積を測る『取り尽くし法』が発明され、積分概念に発展しました。取り尽くし法は細い短冊型、つまり長方形の面積の和として図形の面積を定義するもので、今でも学校で習いますね。解析学はここから始まったと言ってもいいのです。だから元をたどれば、最初は”心“の問題じゃないかなと」

「先に心があった、ということですかね」

「代数もそうです。ものを数えるというのは実は非常に難しい概念なんですよ。たとえば椅子を数えるとしても、椅子はみなちょっとずつ違うわけです。それを同じものと見なして、1、2、3と数える。椅子をどう定義するかって難しいんですけれど、なんとなく我々はこういうものを椅子と見なして、数えている」

津田先生は部屋に置かれている椅子を指さした。確かに、椅子の定義なんてものは知らない。なんとなく椅子は椅子だと思っている。

「でも椅子と机が一緒に置かれていたとして、椅子も机もごっちゃにして1、2、3とは数えないでしょ。いやもちろんそう数えてもいい、別にいいんだけれども、なんとなく気持ちが悪いものです。だから数を数えるという行為の前に、我々はカテゴリー分けを行っているんですね。そのカテゴリー分けは、厳密な決まり通りにというよりは、なんとなく行っている。人間共通の心の仕組みみたいなものがあって、それに従ってやっているんです。これは代数学で言う『群』の構造なんですね。これをもう少し厳密にやっていくと、いろんな代数が出てくるんですよ」

「ええと、つまり僕たちは知らず知らずのうちに毎日、数学をやっているということになるんでしょうか」

「うん、人間の認知構造こそが数学になったんです。そういう心理学的なものだと言ってしまうと反論する数学者もいると思いますけれど。一番最初のプリミティブなところを考えると、そうだと思います。だから数学というのは本来、何か対象を記述するための言語ではなかったんですね」

「人間の『物の見方』そのもの、ってことになるんですか?」

「うん、数学は何かのために作ったわけじゃないんですよ。心の赴くままにやったものなんです」

授業をやりたくないとか、素数の歌を歌いたいとか。隣の土地と比べたいとか、俺はこれが椅子だと思うとか。そういう、理由はよくわからないけれどとにかくこうしたい、という素直な気持ちこそが数学の始まり、そう津田先生は言うのである。

「でも、じゃあ人間の思考には、全部数学が含まれている、ということになりませんか?」

おそるおそる聞いたが、津田先生は即座に肯定した。

「なると思います。心は数学です」

「詩を作るとか、絵を描くとかも全部数学ですか」

「はい。たとえば絵であればそれは脳の視覚表現ですよね。情動と、視覚情報の処理などといったメカニズムが組み合わさって表れてくるものです。それは全て、数学的にモデルを作ることができる。美の背後には心の表出があって、心の表出の背後には数学的な構造が、必ずあると思います」

ううむ。少し考え込んでしまう。

僕にとって数学は、国語とか英語とか世界史なんかと同じ、教科の一つに過ぎなかった。

数学の教科書を開いていない時は、数学はしていないはずだった。

しかし津田先生と話していると、数学は遥かに根深く僕たちの思考に関わっている気がしてくる。言われてみれば、そうかもしれない。

国語の試験中でも、三百文字以内で答えを書け、なんて問題は当たり前のように顔を出す。

文字の「数」を考えるのは数学的である。この問題は配点が大きいとか小さいとか、あいつよりいい点を取りたいとか、そういう「多寡」も数学。合コンで男女が均等になるような「組み合わせ」とか、昨日より今日は仕事をしたくない「比較」とか、人が考えることは何でも数学なのかもしれない。普段、意識していないだけで。

「だから数学が嫌いとかそういうのはね、やっぱり教育の問題だと思います。本来、嫌いになるような対象ではないんです。だって、その人そのものなんですからね」

素朴で素直な、人の心の核。それが数学であり、そこに深く潜っていく人が数学者だということらしい。そんな彼らが誠実で、邪心がなく、自分の気持ちに正直なのは当たり前かもしれない。

だから数学者は、時としてまるで子供のように純粋に見えるのだろう。

彼らが変人に見えるとしたら、変わってしまったのは僕たちの方なのかもしれない。

(続きは本書で!)

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