「野球を楽しんでほしい」―。
阪神タイガース・アカデミーのベースボールスクールで子どもたちを指導する白仁田寛和コーチは何度も「楽しむ」を繰り返す。自身のこれまでの野球人生においても「楽しむ」ことは重要なポイントだった。「楽しめているときは前向きになれている」という。
子どもたちには野球が好きでいてほしい。楽しんでほしい。それが上達にも繋がるのだから―。指導者となった今も、その考えが核にある。
■ぽっちゃりしていた小学生時代はキャッチャー
大型右腕としてドラフト1位でプロ入りしたが、そもそも小学4年で野球を始めたころのポジションはキャッチャーとファーストだった。
「キャッチャーがやりたかった。古田(敦也)選手が好きだったんで…。小学生なのでキャッチャーのおもしろさとか、そこまで考えていたわけじゃなくて、ただ古田さんがかっこいいなという憧れで」。
6年になって試合の最終回にピッチャーをすることもあったが、やりたいのはあくまでもキャッチャーだった。
ビジュアルもキャッチャーっぽかったという。今のスラリとした体型からはまったく想像できないが、「小学生のころはぽっちゃりしていた」というから驚きだ。
中学に進んでから、だんだんと今の体型に近づいてきた。「毎日練習するようになって、運動量が増えた」ことに加えて、身長が毎年10cmずつ伸びたからだ。
■ノーラン・ライアンの「ピッチャーズバイブル」から学んだ中学2年
中学2年になって、いよいよ本格的にピッチャーをすることになった。そこでとった行動がおもしろい。
「まず本を買ってから始めた」。
本屋で手に取ったのがノーラン・ライアンの「ピッチャーズバイブル」だった。ノーラン・ライアンの名前も実績もまったく知らなかったが、なぜか惹かれたという。読んでみるとトレーニング内容や調整方法など、参考になることばかりだった。中でももっとも熱心に見ていたのが毎ページの“端”だ。
「ページの端に投球フォームの写真があって、パラパラ漫画のようになっていた。それを見てノーラン・ライアンのフォームの研究をしていた。今はYouTubeとかあって、便利な世の中になって羨ましい(笑)」。
手軽に動画が見られない時代の努力だ。部活の軟式野球だったが、意識高く取り組んでいたのが窺える。
■ドラフト1位で阪神タイガースに入団
糸島高校では、1年の冬ごろからスカウトが訪れるようになった。3年になると地元での注目はどんどん高まり、ドラフト前日にはなんと新聞の一面を飾った。しかし最後の大会で肘を痛めたこともあって指名はなく、福岡大学に進学した。
大学1、2年時は登板機会がなかったが、3年春はほぼ全試合に投げた。さらに3年秋、4年春とエースとして奮闘し、通算で18勝(防御率1.81)を挙げたが、4年秋は肩を痛めて登板することができなかった。ドラフト時点で故障は癒えていなかったが期待は大きく、阪神タイガースから1位指名された。
「嬉しさはあったけど、ケガして投げてない僕が…と不安のほうが大きかった」というのは素直な気持ちだろう。しかしそれだけの逸材だったということだ。
肩はすぐに治ったが、プロ入り後は3年間、1軍昇格のチャンスは訪れなかった。
「そのころはドラフト1位のプレッシャーや歯がゆさがずっとあった。野球自体が嫌になりかけていた、そんな時期だった」。
同期の選手が先に1軍に上がって初勝利を挙げたこともあり、「自分もやらなきゃ」と焦ったが、「なかなかどうやっても結果が出ないというようなところがあった」と、もどかしい思いでいた。
■入団6年目に初先発初勝利
入団4年目、シーズン終盤にようやく1軍デビューした。マツダスタジアムでの広島東洋カープ戦だ。
「最後だと思って投げた。もう終わりだろうなと思って…」。
クビを覚悟して臨んだマウンドだったが、1回を投げて無失点で終えた。
翌年は1軍では2試合の登板だったが、ファームでは29試合に投げて防御率は2.64。そのオフ、豪州のウィンターリーグに参加した。期待の若手選手が球団から派遣されるのだ。この年はほかに藤原正典投手、柴田講平選手も一緒だった。これが一つの転機になった。
「また野球が楽しくなった。環境が一番だと思うけど、知らない人たちと野球して、みんな楽しそうにやってて。僕も毎日が楽しかった」。
なんのしがらみもない。余計なことを考えなくていい。ただただ一生懸命、野球だけに没頭できることが楽しかった。原点に戻れたような気がした。
明けたシーズンでは、着々と力をつけていった。「自分の考えているように投げられていたイメージだった」と、ファームで結果を積み重ねた。
そして9月、1軍で初先発のチャンスが巡ってきた。ジェイソン・スタンリッジ投手が腰を痛めたことにより、急遽、呼ばれたのだ。横浜DeNAベイスターズを相手に6回を投げて1失点でプロ初勝利を挙げた。
また、ウエスタン・リーグでは最優秀防御率(2.17)と勝率1位(.714)のタイトルを獲得した。
■オリックス・バファローズでキャリアハイの奮闘
しかし翌年はキャンプから右手の指をけがするなど、なかなか波に乗れなかった。そしてシーズン終了後の秋季キャンプ中、球団からあることを告げられた。オリックス・バファローズの桑原謙太朗投手との交換トレードだった。だが、「ちょっと嬉しかった」と前向きにとらえられた。。
「違う球団も見られると思って。同じ関西で近かったけど、少し嬉しさがあった」。
乞われていくわけだから、また可能性も広がる。
実際、新天地となったバファローズでは初めて開幕1軍メンバーに入り、これまでのキャリアを大きく塗り替える43試合に登板するなどフル回転した。2年ぶりの勝利も挙げた。
「ただ単純に楽しかった、野球が。やっぱり野球が楽しかったら結果もついてくる。技術ももちろんあるけど、まずは野球を楽しむことだなと。投げられる喜びとか、やってて楽しいから、前を向ける。打たれても切り替えができる、前を向いてるんで」。
しかし一転、バファローズ2年目は故障に苛まれた。前年の最後に負った左ハムストリングの肉離れが再発し、さらにそれを4度繰り返したのだ。そして引退を余儀なくされた。
■プロ9年はケガとの戦いだった
9年間のプロ野球生活を「ずっとケガに悩まされていた」と振り返る。もっとも大きかったのは2年目のキャンプ前だ。先乗りでキャンプ地に入り、宜野座球場でノックを受けているときに左内転筋に痛みが走った。肉離れだ。
しかし、ここで離脱はしたくなかった。なぜなら「今年はやれる」という手応えがあったからだ。
「1年目の終わりくらいに『これだ』というのを掴んだ。これなら勝てると自信があった」。
トレーナーには「やります」と言って、我慢してキャンプに参加した。しかし、それがいけなかった。
「そこからおかしくなって、自分の投球ができなくなった。そのあと2年間くらいは、よかったころの感じに還ろう、還ろうとして、戻りたい、戻りたいと思ってやっていた。でも戻れなくて…。その後は変化が必要だ、変えようって考えたけど、それもあまりしっくりこなくて」。
故障をすると、無意識に患部をかばってしまうものだ。それによって体の使い方が変わり、前シーズンで掴めたものを手放してしまうことになってしまったのだろう。
我慢しながら続けていいのか、無理することが後々に響くことなのか、今ならわかる。しかしその当時はアピールしなければと必死で、黙ってやり続けることの一択しかなかった。
それが結局、引退するまでずっと悪影響を及ぼした。好投もしたが、自分の求めているものではなかったという。ケガと、それによる苦悩がずっとつきまとった9年間だった。
■一般企業に就職
引退後、先輩の紹介で、「アンダーアーマー」というブランドのスポーツ用具やアパレルを扱う企業に就職した。「ベースボールハウス川崎久地」にて、ベースボールアドバイザーという肩書で小学生相手に野球の個人レッスンをしながら接客業もこなした。
「社会人として野球とは違う作業ばかりで新鮮だったし、充実はしていた。でも焦りもめちゃくちゃあった。パソコンを使っての売り上げ報告とか、なかなか大変だった。社会人ってこういうことができないといけないんだなって、もっと早くクビになってればよかったって思うくらいに、大変だった」。
苦戦はしたが、持ち前の生真面目さで取り組んだ。接客も慣れると会話には苦労しなくなった。
■ベースボールスクールのコーチとして古巣に復帰
2年勤めたころ、家族のことを慮って関西に戻ることを考えた。古巣のチームメイトに相談するとタイミングよく話が進み、タイガースアカデミーのコーチに就くことができた。前職で指導経験もあることから、不安はなかった。なによりアカデミー自体も発足して1年で、一緒に作り上げていける喜びもあった。
曜日ごとに設定された各校で幼稚園児から小学6年までを対象にコーチングする。また、「ゲストティーチャー」といって近隣の小学校を訪問して、体育の授業で野球を教えるという活動も行っている。
「上手になるっていうのはあるけど、まず野球を好きになってもらう、野球を楽しんでもらうっていうのが一番」。
自身が持ち続けてきたモットーは、アカデミーの方針ともリンクする。そして野球を楽しむにはどうすればいいかと考えたとき、ルールが大切だとうなずく。
「ルールを知らないとおもしろくない。なんでもそうだけど、ルールがあるから楽しい」。
楽しむためにルールもしっかり覚えるし、楽しむためにうまくなろうと頑張る。そしてそれがまた、楽しいに繋がる。そういうプラスのループを伝えていければと考えている。
■タイガースジュニアの監督として
アカデミーコーチ2年目の昨年は、タイガースジュニアの監督も務めた。(詳細⇒阪神タイガースジュニア)
16人のメンバーのセレクションから始まり、練習や練習試合を重ねて一つのチームを作り上げ、年末の本大会に挑んだ。
「約3ヶ月だったけど、子どもたちの成長が見られた。守備にしてもバッティングにしても一つ一つのプレーがかなり伸びた。全然打てなかった子が打てるようになったり…めちゃくちゃ練習したんだろうけど、そういうのを見ていると、本当にすごいなと思った。僕としても素晴らしい経験ができた」。
小学生ながらも大勢の中から選ばれた精鋭たちだ。能力はもちろん高いが、意識もどんどん高まっていったようだ。
だが、それでも優勝は遠かった。これまで地元では負け知らずだったであろう選手たちが、上には上がいると思い知らされた。相手は同い年なのだ。そんな悔しい思いをした選手たちに、こう声をかける。
「これから先、またすごい相手が出てきて挫折することもある。そこで自分を信じて頑張ってほしい。ここからみんなバラバラになるけど、まずは自分のチームで一番になること。それには自分のことをよく知っていてほしい。自分を知らないと何もできない」。
前に進むためには自分を知ることが近道だと、これまでも伝えてきた。そして、繰り返し説いてきた「考えること」「準備すること」の重要性をあらためて強調し、今後も持ち続けてほしいと願う。
自身もジュニアチームの監督を経験したことで変化があったと語る。
「教育者目線になったかな。子ども一人一人を見て、子どもたちのことばかり考えてて…なんか先生になったような、そういうふうに自分で感じていた。ジュニアを経験したことで、アカデミーでの自分もちょっと変わったかもしれない。もともと人間的な教育という視点でやってたけど、子どもたちへの思いがより強くなったのかなと思う」。
大会終了後、選手全員が寄せ書きした色紙を贈ってくれた。
「『日本一のセカンドに必ずなります』って、ここで(自分の目指す)ポジションが決まったのかなっていうくらいの子もいて…」。
ほかにも「プロ野球選手になるのを楽しみにしていてください」「準備の大切さがわかりました」など、あふれんばかりの熱い思いや感謝の気持ちが記されていた。
大舞台を経験したことで各自が何かを感じ、またそれを今後に繋げてくれるであろうことが、監督としてとてつもなく嬉しかった。“白仁田チルドレン”のこれからの飛躍を楽しみにしている。
■野球を楽しんでほしい
自身の今後についてはタイガースアカデミーをより充実させていきたいと意気込む。
「まだバチッと決まったものがないと思ってるんで、それをしっかり作っていきたい。メニューだとか動きだとかも」。
より野球を好きになってもらいたい、より野球を楽しんでもらいたい、そして自分の成長を感じてもらいたい―。
これまで自分が味わってきた喜びを、できる限り子どもたちに伝えていく。
(撮影はすべて筆者)
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