しかし Azure Quantum チームでは、こうした緊急で現実的な問題に取り組むには、100 万量子ビット以上を使用する量子コンピュータが必要だと早い段階で判断していました。これまでにゲートベースの量子コンピューティングの公開デモで使用されているのは 130 未満です。またマイクロソフトの専門家は、現在の量子ビットの多くに限界があり、商用量子アプリケーションのサポートに必要な規模を達成するのは困難だと予想しています。
そこで、Azure Quantum ではトポロジカルキュービットの開発に注力しています。トポロジカルキュービットは、現在開発中の他のタイプの量子ビットより高速で小さく、情報が失われる可能性が低いと期待されているためです。マイクロソフトでは、より安定したトポロジカルキュービットを作ることが、産業規模の量子マシンを構築するにあたって最も明確で最速の道だと考えているのです。
しかしこれまで、トポロジカルキュービットの追求には欠点がありました。それは、基礎となる量子物理特性を活用して量子ビットを生成できるかどうか誰も確信が持てなかったことです。
マイクロソフトのディスティングイッシュドエンジニアで、量子ハードウェアプログラムを率いるチェタン・ナヤック (Chetan Nayak) は、「このように非常に難しいことをこなし、トポロジカル相を生成するデバイスが作れるようになったということは、課題に立ち向かっているこのチームが非常に優秀で、次の重要なステップに取り組むことができるということです」と話します。
「これで、定義が難しいこの物理特性の主要な特徴が証明されました。これから全力でトポロジカルキュービットに向けて取り組みます」とナヤックは述べました。
ハイリスク・ハイリターンのアプローチ
量子業界では現在、さまざまな手法を追求しながら量子ビットの開発を進めています。量子ビットを最適な状態に維持できれば、量子コンピュータは理論上、重ね合わせや絡み合い、干渉といった量子力学の特性を活かし、従来のコンピュータよりはるかに少ない時間で、さまざまな手法やできる限りのソリューションで特定の問題を解決できます。しかし、複雑な現実世界の問題を確実に解決できるような規模の量子コンピュータは未だ存在しません。
現在 Azure Quantum のお客様は、量子テクノロジで初期段階ではあるものの有意義な利益を見い出すことができています。例えば、従来のアルゴリズムに量子原理を活用し、最適化ソリューションを高速化するといったことなどです。また、耐久性のある量子ソリューションのプログラミング方法を学び、業界における現世代の量子ハードウェアで検証し実行することも可能です。
Azure Quantum に関する決定や投資は、すべてひとつの長期的な目標に焦点を当てたものとなっています。それは、量子マシンを開発し、Azure のお客様がこの技術で実世界でのエンタープライズ規模の問題を解決できるようエコシステムをサポートすることです。
この量子マシンは、Azure の従来のコンピューティングリソースと連携した上でお客様に新機能を提供するよう設計されています。例えば、研究室で数十年もかけて新しい触媒を設計していた化学会社が、同じことを数週間でやり遂げるようになるかもしれません。科学者も、自然の秘密を解き明かしてより持続可能な光を採取し、よりクリーンなエネルギーの実現に向け太陽光発電を改善できるかもしれないのです。
アラムは、最初に商用の量子加速器を開発した企業が優位な競争力を持ち、顧客も獲得できると話します。これは、Azure が最高級のクラウドサービスを今後も提供し続け、エンタープライズのお客様が各業界で画期的な進歩を遂げられるよう支援するという計画を示すものでもあるのです。
例えば、マイクロソフトの専門家によると、100 万量子ビットの量子コンピュータは、新しい化学触媒を追求する際に複雑な分子を正確にシミュレーションできるとしています。これは、従来のコンピュータであれば太陽系全体に相当するほど大きなコンピュータでもモデル化できないことなのです。
「これはコンピューティングにおける次の大きな進歩です。企業の世界では、この考えは明らかなことなのです」とアラムは述べています。
しかし、商用として価値のある量子コンピュータを構築するには、量子ビットの性能が信頼性、速度、サイズという 3 つの主な側面で優れている必要があります。
量子状態は性質上、非常にもろく分裂しやすいため、量子ビットが確実に計算を実行できる状態を維持することは困難です。従来のコンピュータを上回るようなメリットを提供するには、量子ビットも情報を高速処理する必要があります。また、倉庫やサッカー場を埋め尽くすほど量子マシンのコンポーネントを大きくすることはできないため、特定の種類の量子ビットで構築されたシステムは拡張が困難なのです。
マイクロソフトの製造担当ゼネラルマネージャー、ラウリ・サイニエミ (Lauri Sainiemi) は、「量子ビット自体は問題なく構築できます。ただ、何百万もの量子ビットを連携して動作させるには、つまり、それが新素材を明らかにして私たちがやり遂げたいと考えている実用化に向け本当に必要なことなのですが、それには信頼性、速度、サイズの 3 点を同時に実現しなくてはなりません」と述べています。
量子コンピュータの開発にあたって課題となるのは、量子ビットが熱や浮遊する亜原子粒子、磁場などの環境ノイズに遭遇すると、簡単に崩壊しデコヒーレンス現象に陥ることです。そうなると情報が失われ、量子ビットは計算に使用できません。エラーが発生するようになり、量子コンピュータはその修復にさらに信頼性の低い量子ビットを充てる必要があります。これは、部屋中に箸で回転させた皿が回っている状態を保とうとしているようなもので、少しでもずれが発生すると 1 枚の皿がバランスを崩し、他の皿にぶつかってしまいます。
マイクロソフトでは、環境ノイズからの保護機能を搭載したトポロジカルキュービットを追求するアプローチを採っています。これにより、有用な計算を実行しエラーを修正する量子ビットの数が少なくて済むためです。トポロジカルキュービットも情報を迅速に処理でき、クレジットカードのセキュリティチップよりも小さなウエハに 100 万個以上搭載できるようになります。
トポロジカル保護機能を構築するにあたっては、物理的に分離したマヨラナ・ゼロモードのペアで量子情報をエンコードします。これにより、トポロジカルキュービットは環境ノイズの影響を受けにくくなり、量子ビットが別の量子ビットにひとつだけ遭遇しても、情報をやり取りしたり破壊したりすることはできなくなります。量子情報を解読する唯一の方法は、両方のマヨラナ・ゼロモードの結合状態を同時に確認することです。このように戦略的な手法を取ることで、量子操作が可能になるとともに、量子ビット特有の保護機能が実現します。
しかし、まずは Azure Quantum チームでこうした安定性、速度、サイズの利点をもたらすトポロジカル相を確実に生成する方法を示す必要がありました。そこで、厳しく制御され原子的にも正確な方法で半導体や超伝導材料をデバイスに積層するプロセスを開発しました。特定の磁場と電圧が存在すれば、デバイスは適切な条件下でナノワイヤの両端に現れる明確なエネルギー信号という特徴を持ったマヨラナ・ゼロモードのペアと、測定可能なトポロジカルギャップを備えたトポロジカル相が生成できるのです。
マイクロソフトの量子専門家は、実用的な量子アプリケーションの実行要件を満たすアーキテクチャを検討した際、実用化に必要な規模を達成できる量子コンピュータの 3 つの要件をすべて備えた構成要素はトポロジカル量子ビットだけだと考えるようになりました。
しかし、この挑戦的なトポロジー的アプローチへの投資は、谷にとどまって楽な道を進むと、その後崖に突き当たって上に進めなくなるのではなく、登山口からまっすぐ山を登り、最終的には稜線に沿って楽に歩いて頂上に到達することを選ぶようなものだとも考えていました。
デンマークのリュンビーに拠点を置くマイクロソフトの Quantum Materials Lab (量子材料研究所) で科学ディレクターを務めるピーター・クログストラップ (Peter Krogstrup) は、「マイクロソフトは、ハイリスク・ハイリターンのアプローチによって、理論的に最高の量子ビットと考えられるものを作ろうとしたのです。そこで課題となったのは、マヨラナ・ゼロモードを実際に見た人が誰もいなかったことです」と話します。「それが今では達成できてうれしく思います。これからもエンジニアリング能力を継続して進化させなくてはなりませんが、今ではスケーラブル量子コンピューティングへの道が実際に存在しているように思えます」
‘突然の驚き’
ローマン・ルッチン (Roman Lutchyn) は昨年、ホテルでランチを食べていた時、チーム内で最新デバイスの設計に関する実験の測定値を分析するよう依頼されていた同僚からメールを受け取りました。以前ルッチンはその同僚と共に量子専門家と協力し、トポロジーの突破口を見い出したという確信を得るため、データで確認すべき内容をすべてまとめたチェックリストを作成していたのです。
ルッチンは量子シミュレーションが専門で、マイクロソフトのパートナーリサーチマネージャーを務めています。ルッチンがその同僚にデータの分析を依頼したのは、これまでその同僚がチームで適度な疑念を持ち続けている人物だったためです。また、システムに電流を流し、材料がどう反応するか確認するデバイスの設計や実証にも関わっていませんでした。今回その同僚は、お互い求めていた条件をデータがすべて満たしていると認めたのです。
そこには、ゼロバイアスピークというペアになった明確なエネルギー信号が存在していました。つまり、トポロジカル相に調整されたナノワイヤの両端にマヨラナ・ゼロモードがあるということです。以前は、その信号はワイヤーの片方にのみ見られ、両端には存在していませんでした。また、電気伝導率データには、トポロジカルギャップの証拠を示す別のパターンもありました。これは、トポロジカル相の環境障害への耐性を定量的に示した測定値です。ギャップの開閉状態や、2 つのゼロバイアスピークが同時に出現する様子を確認する必要がありましたが、それが初めて明確に確認できたのです。
「突然のことに驚きました。データを見て、これだと思いました」と、ルッチンは述べています。
Azure Quantum チームは量子分野の外部専門家と相談し、できるだけ高い基準を設定、待望のトポロジカル相を確立したと示す客観的な基準を明確に定めようと考えました。特に 2018 年には、マヨラナ・ゼロモードを追求していた論文の著者らが、後に不完全なデータや誤解を招くようなデータを使っていたと判明し、Nature 誌が論文を撤回することになったため、そのような不確実なことは避けたかったのです。
そこでハードウェアチームでは、量子分野で世界でもトップクラスの専門家を含む外部評議会を招集し、最新の結果を詳細にレビュー、この発見についてフィードバックを得て検証したとアラムは述べています。
Azure Quantum チームでは、たったひとつの証拠を単独で見つけただけでは不十分だということを理解していました。ただし、最新のデバイス設計から得たデータの蓄積は、求めていたすべてのパターンを互いに結びつけ、複数のデバイス上で得たものであることから、はるかに説得力のある事例だとしています。
マイクロソフトのシニアリサーチャーで、量子材料研究所に所属するジュディス・スーター (Judith Suter) は、「一部分だけしか見ていない状態では、何を見ているのかわかりにくいものです」と話します。「砂漠の中で骨を 1 本見つけたとしても、それがどの動物のものか判断するのは困難です。しかし骨格全体を組み合わせると、それを見て『あぁ、キツネだね』と言えるのです」
実験から工業デザインまで
この 1 年で、Azure Quantum のハードウェアチームでは、研究室で理論を検証し、試行錯誤を重ねて学ぶという主に実験的なアプローチから、パフォーマンスの最適化に向け特定の要件を備えた材料のシミュレーションや設計、エンジニアリングへと移行しています。
「科学的発見だけがモチベーションになっているわけではありません。当社の事業は、お客様に価値を提供し、これまで想像もできなかったようなことができるようになる製品を作ることです」とアラム。そのアラムは、プログラム全体の文化的転換を推進したと多くの人が認めており、最近のチームの進歩を加速させた立役者です。
「量子コンピュータの構築は、月に人類を送ったり、火星への冒険に乗り出すことと似ています。同じレベルかそれ以上に複雑なので、専門家チーム全員が密に連携して取り組まなくてはなりません。そのミッションは、個人ひとりのものよりはるかに大きなものなのです」とアラムは述べています。
マイクロソフトの量子研究は長年、主に学術的アプローチを採用し、量子物理学の深い専門知識とわずかな直感や推測に基づき、複数のチームが最も有望だとみなした理論を検証してきました。そのため、実験室で次々と実験を設定し実行しなくてはならず、それに時間がかかっていたほか、成功や失敗の要因を迅速に見分けることが難しいこともありました。
サンタバーバラにあるマイクロソフトの Station Q 研究室にいるルッチンをはじめとする研究者は、Azure の大規模なコンピューティング能力を活用し、チームの貴重な学術研究を補完する新たな量子シミュレーション機能を開発しました。これによりハードウェアチームは、使用する材料から各コンポーネントの寸法、量子ビットの連結方法に至るまで、さまざまなデバイスの設計が量子の動きに与える影響をモデル化し予測できるようになりました。これでさまざまなシナリオを繰り返し検証し、個別のパラメータをシミュレーションで微調整できるようになったことから、パフォーマンスに最も影響を及ぼす特性を分離できるようになりました。
「実験や科学的なアプローチから、より産業的で工学的なアプローチへと切り替わり、プログラムが次のレベルへと進みました」とルッチンは話します。「今でははるかに一貫性を保てるようになりました。これがその方法で、必要なスペックはこれだ、と言えるようになったのです。これまで以上に予想通り、期待していた結果が得られるようになります」
マイクロソフトのコペンハーゲン量子材料研究所をはじめ、さまざまな場に拠点を置く専門家らも、過去数年間で製造技術の発明や最適化に取り組んでおり、今では原子レベルの精度でデバイスの設計や製造ができるようになりました。最新デバイスの主要な要素を高真空環境にて組み立てる方法を把握したことで、ハードウェアチームは従来の製造技術では不可能だった純度レベルに到達することもできています。
こうしたさまざまな製造技術の進化も、マイクロソフトの最新の大発見に役立ったといいます。これにより、設計・シミュレーションチームが作成した理想的な仕様に、ハードウェア製造者が合わせられるようになり、物理的に実現できるようになったのです。
「会議室でアイデアを出し合うだけでなく、今ではシミュレーションに基づいた設計に導かれるようになりました」とナヤックは話します。「そして今、そのアイデアを実現する独自の成長と製造技術があるのです。世界一の設計ができても、それを実現できなければ単なる机上の空論に過ぎませんから」
量子ビット工学への道
明らかなこととして、スケーラブル量子コンピュータの構築に向けてはこれからもかなり困難な取り組みが必要だと、マイクロソフトの量子コンピュータのリーダーたちは述べています。
それでも、Azure Quantum チームが実現したシミュレーションや設計、製造の能力は、同チームが次の段階に進む際に引き続き役立ちます。次の段階で取り組むのは、トポロジカルギャップをより堅牢で安定したものにする方法を模索することや、マヨラナ構成要素を巻き込んで量子ビットを作り出すこと、意味のある計算を実行できる量子ビットで情報を処理すること、宇宙空間より低い温度で動作する必要のある量子ビットをスケーラブルなマシンに接続することなど、さまざまです。
ただ、最も重要な科学的疑問はもはや消え去ったと Azure Quantum チームは考えています。次にやって来る問題は依然として困難なものの、これまでほど未知の領域にあるわけではないとしています。
「トポロジカルキュービットの生成にはもう根本的な障壁が存在しません」とサイニエミは語ります。「これで完全に終わったわけではなく、まだやるべきことは山ほどあります。それでも基本的な部分は実証されたため、今はより工学的な道を進んでいて、その道を今後も追求し続けていきます」
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