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Thursday, November 4, 2021

「スゴイ」「レジェンド」「まだやってる」~三遊亭金翁の芸歴80周年 - 読売新聞

kukuset.blogspot.com

 「よみらくご」総合アドバイザー、演芸評論家の長井好弘さんが、演芸愛いっぱいのコラムをお届けします。

 三遊亭金翁、現役最古参の92歳。昨年秋、 (せがれ) の金時に五代目を譲り、四代目の金馬から隠居名の「金翁」となってからも、ちょくちょく寄席に出ている。足腰は多少弱ったかもしれないが、口と頭に衰えはない。

 演芸半ばの出番なら、小味なネタを明るく軽妙に演じる。トリに起用されれば、大ネタやレアネタを、臆せず、きっちりと演じて喝采を浴びる。何日間か続けて出演すれば、「しばらく () らないと忘れちゃうからね」と毎日、ネタを替える。

 「今でも寄席の看板を見て、『ああ、金馬が出てる』と言ってくださるお客さんがいます。これはうれしいですね。でも、その後がよくない。『あいつ、まだやってるのか』って」

 ずいぶん前から、こんなまくらで温かな笑いを誘っている。金翁は令和の現在も、芸の水準を高く保ちながら、「まだやっている」のである。

 1941年、小学校卒業と同時に12歳で昭和の名人・三代目金馬に入門してから80年間、第一線で活躍し続け、92歳の今もバリバリの現役――。「すごい落語家」という陳腐な賛辞しか思いつかない。

 その「スゴイ金翁」が10月30日、満場の拍手に迎えられ、東京で一番古い寄席・上野鈴本演芸場の高座に上がった。「鈴本三十日会 三遊亭金翁芸歴80年記念」と銘打たれたスペシャル落語会だ。

 木戸口に「満員御礼」の文字が踊る演芸場。金翁のキャリアにははるかに及ばない人気者たちが、次々と高座に上がる。

 「金翁師匠は元気ですよ。こっちの方が疲れてる。今のところ、生存は確認されています。もうすぐ楽屋入りです」(「加賀の千代」を演じた春風亭一之輔)

 「芸歴80年なんて聞いたことがない。享年80というのはよく聞きますが」(「ふぐ鍋」を演じた五代目金馬)

 「金翁師匠、今、お入りになりました。80年、すごいですよねー。80年生きてるってことですからね」(浮世節の二代目立花家橘之助)

 「80年ですよ。夢みたいな 噺家(はなしか) ですね。この先、どんなに頑張っても、もう出てこないでしょう」(「浮世床・夢」を演じた入船亭扇遊)

 毒舌の中に敬意と真情がこもった、いかにも演芸家らしい言葉が金翁に贈られる。

 彼らのコメントは、要約すれば、一言に尽きる。

 「金翁師匠はすごい!」

 やっぱり、これ以外に、金翁をたたえる言葉はない。

 2016年の春、僕は四代目金馬時代の金翁に長い長いインタビューを敢行した。その内容は、読売新聞朝刊の「時代の証言者 76年目の噺家」 (注1) という連載記事にまとめられた。

 当時のメモを見ながら、金翁のたどってきた道を振り返ってみようか。

 <入門してすぐに戦争が始まったので、前座修業のほとんどは戦時下で過ごした。1945年東京大空襲の時は、錦糸町の娯楽施設「楽天地」に住んでいたので、焼け落ちる駅や映画館の合間を逃げ回った。翌々日、ようやく師匠金馬の家に行ったら「バカ野郎! テメエが生きてるか死んでるか、四谷から錦糸町まで自転車こいで行ったんだぞ!」と涙ポロポロこぼしながら怒ってる。あたしも「すみません、すみません」って泣きながら謝った。>

 <終戦直後の8月18日、戦後初の二ツ目に昇進した。「米兵が上陸したら、日本人の男はみな殺されるという (うわさ) だ。お前も前座のままより二ツ目で死んだほうがいいだろう」と、師匠の三代目金馬が笑いながら言った。>

 <師匠の勧めで始めた腹話術が、我が身を助けてくれた。人形のター坊 (注2) とのやり取りは落語さながら。戦争中は学童疎開の慰問、終戦後は地方興行に引っ張りだこで、「食えない時代」をしのぐことができた。>

 <53年、NHKのテレビジョン本放送が始まった。その数年前から試験放送で腹話術を披露した。とにかく暑かった。受像管の感度が鈍いから大量のライトを使うでしょ。服は焼けるし、ター坊人形の鼻があやうく溶けそうになった。>

 <テレビ草創期の国民的コメディー番組、NHK「お笑い三人組」(56~66年)にレギュラー出演、「満腹ホールの竜ちゃん」で顔を売った。公開生放送で10年間。毎回のようにハプニングがあった。でも、やめたいなんて思ったことは一度もない。江戸家猫八、一龍斎貞鳳と当時は小金馬だったあたしの三人、「俺たちがテレビのコメディーのスタンダードを作っているんだ」という気概があったんですねえ。>

 <四代目金馬を襲名して、落語協会に入った。その時、「名人の名跡は荷が重すぎる」と五代目柳家小さん師匠に弱音を吐いた。「せめて4、5年後に力をつけてから」「お前、4、5年たったら、うまくなるのか?」「……わかりません」「そうだろ。継いじゃえばいいんだよ。俺が小さんになる時もそうだった」。小さん師匠が背中を押してくれたんです。>

 「80周年記念」の会でも、仲入り休憩の後に、金翁の半生を振り返るコーナーがあった。舞台中央のスクリーンに昔の写真が映し出され、それを見ながら五代目金馬と柳家喬太郎があれこれと質問をした。

  金翁 「猫八、貞鳳、あたしの三人組に、 (やっこ) ちゃん(三遊亭歌奴、後の三代目円歌)を加えて、日本テレビで中継の穴を埋めるために、急きょ、生放送でプロレスのコントをやったんですよ。あたしと奴ちゃんがプロレスやって、猫八がレフェリー、それを貞鳳がアナウンサーになって実況したの」

  喬太郎 「(身をよじりながら)それ、見てエ~!」

  金翁 「それがきっかけになって、後にNHKの『お笑い三人組』に起用されることになったんだよ」

 そしていよいよ、トリの高座だ。いったん幕が下ろされ、再び幕が開くと、正面に「鈴本」と書かれた釈台(講談で使う専用の書見台)の向こうで、金翁がちょこんと頭を下げている。

 「先に死ぬやつがいると、やだね。俺が生きてるのに、なぜあいつが死ぬんだと。小三治さんとか。『長生きも芸のうち』と黒門町(八代目桂文楽)が言ったけど、生き残ったのは自分だけだよ。今、デイサービスでベロの運動やってるんだけど、みんなマスクしてるから、ほんとにやってるのかわかんない。早口言葉はダメだね。家で落語の難しいネタをさらうとできるのに、『赤巻紙、青巻紙』が言えない。何でだろう。そうか、金にならないからだ」

 とぼけたまくらで笑わせた後は、黒門町の十八番としても知られる「景清」を丁寧に演じた。金翁の「ベロ」は快調に動き、上野・清水観音のにぎわいや、不忍池の突然の雷雨を鮮やかに描写した。

 終演後、「今の姿を三代目が見たら、何と言うでしょうか?」と質問してみた。

 「オヤジ(三代目)は『相変わらずヘタだなあ』と言うでしょう。(名人だった)三代目のことを考えたら、噺をするのが嫌になるよ。あたしも『先代のようにうまかった、面白かった』と思ってもらいたい。でも、こればかりは、死んでみないとわからないやね」

 三代目とは違う「四代目金馬」の落語を作るために走り続けてきたが、「実はまだ答えが出ていない。一生、勉強ですよ」という。

 終演後、にぎわいを取り戻しつつある上野広小路を、松坂屋の方に向けて歩いた。

 新聞の連載中、インタビューを終えた後に何度か、金翁夫妻 (注3) と食事に行ったことを思い出した。松坂屋の裏手にある、高級なとんかつ屋である。

 「ご夫婦で、とんかつを食べるんですか!」

 「ここは先代からの 贔屓(ひいき) だからね。板場の人たちも修業時代から知ってるわよ」

 夫人の言葉を聞いて、調理場の連中が頭をかいている。夫妻は、僕より早く、分厚いとんかつを完食した。

 「年を取るのは面白いですね。毎日がスリリング。今日大丈夫と思っても、明日になったら足が痛くて動かないなんてこともある。楽屋連中はあたしのことをシーラカンスとかミイラとか言うんですよ。あたし自身は『寄席のレジェンド』だと思っています」

 これもその頃の寄席のまくらである。

 「すごい落語家」よりは「レジェンド」のほうが、多少、体裁がいい。もちろん、当時も今も、楽屋連中も世間の人々も、「金翁は寄席のレジェンドだ」と信じ、 微塵(みじん) も疑ってはいない。

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