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Monday, March 15, 2021

【オヤジンセイ】植草克秀「ジャニーさんにプロ意識を叩きこまれた」芸能界に興味のなかった少年が“最高傑作”に - フジテレビュー!!

kukuset.blogspot.com

さまざまな世界で活躍しているダンディなおじさまに、自身の半生を語ってもらう「オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~」。

年齢を重ね、酸いも甘いも経験したオトナだからこそ出せる味がある──そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。

今回は、「オヤジ」と呼ぶにはまだちょっと早いような気もするが、歌手・俳優の植草克秀が登場。1985年に少年隊のメンバーとしてデビューした彼は、卓越したパフォーマンスで多くのヒット曲を連発。日本芸能史に多大な功績を残した。

そして、約40年にわたって在籍した所属事務所を2020年いっぱいで退所。今年1月16日には公式サイトを立ち上げ、個人事務所「2steps」を設立したことを発表した。第二章を歩み始めたばかりの彼のインタビューを、前後編に分けてお届けする。

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世界一周の旅で受けたカルチャーショック「なんでみんな洋楽を知ってるの!?」

僕の家は材木店だったので人の出入りが多く、ワイワイガヤガヤといつもにぎやかでした。親父がよく周囲の人の面倒をみていたからか、僕にとって、それがごく当たり前のことだったんですよね。だから、僕自身も昨年まで所属していた事務所の後輩たちを「ゴハン行こうぜ」と誘うことが、よくありました。

子どもの頃は、よく転んだし、家の裏にあった建材屋さんの砂場みたいなところから落ちて、頭から血を流して…ということも。とにかくケガばかりしている元気な子どもでした。親には「落ち着きなさい!」って、しょっちゅう叱られていましたね。

テレビは、アニメやうつみ宮土理さんの『ロンパールーム』(日本テレビ系)、『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ系)をよく見ていたけど、歌謡曲にはあまり興味がなかったと思います。そんな中、憧れた職業はパイロット。でも、おふくろから「パイロットになるには歯が丈夫じゃなきゃいけない」「頭がよくないといけない」と言われ、僕には向いてないと諦めました。

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小学生のとき、僕があまりにも落ち着きがないものだから、親父から修行の意味を込めて「海外へ行ってこい」と言われて。同年代の子たちと夏休みに1ヵ月間、世界一周の旅をすることになったんです。

そこに集まったのは英語ができる子ばかりで、「みんなで歌いましょう!」となった時にビートルズの「Yesterday」を迷いもなく歌っていて。「なんでみんな、そんな歌知ってるの!?」とカルチャーショックを受けました。

そこから洋楽に興味をもち始め、ABBAやカーペンターズのレコードを買って、聴くようになりました。

中学に入ったぐらいから、周りが歌謡曲の話題で盛り上がり始めて。当時流行っていたのが五十嵐浩晃さんの「ペガサスの朝」。僕もたしかレコードを買ったんですよ。後々わかったことですが、僕らがデビューする時のレコーディングディレクターは、五十嵐さんのバックでギターを弾いていた方だったんです。「嘘でしょ!?」って、もう感動しちゃいましたね。

初レッスンで「男が踊るなんて嘘だろ!?」と鳥肌が…

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その頃、僕はジャニーズ事務所を知らなかったけど、入所希望の友達がいて、彼が僕と一緒に写っている写真を事務所へ送ったところ、僕だけに(合格だと)電話がかかってきて。でも、友達関係を失うと思ってしばらくレッスンには行きませんでした。

ある時、事務所から「同年代の子がたくさんいるから来ないか?」と改めて電話がきたので、それからレッスンへと通うようになったんです。初めてのレッスンは、テレビ朝日の1リハ(※)でした。

※当時は六本木のテレビ朝日内別棟にある1リハーサル室、2リハーサル室をジャニーズ事務所のレッスン場として使用しており、これは90年代後半まで続いた。

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部屋に入ると、同年代の男の子たちがたくさん踊ってたんです。それを見て、「あり得ないっ」と思って。今でこそ男の子が踊るのは当たり前のことだけど、僕らの時代は「男が踊るなんて嘘だろ!?」という感覚で、鳥肌が立っちゃって。

そこへ「YOU、一緒に踊っちゃって」と声をかけてきたのがジャニー(喜多川)さん。そして、オニツカタイガーのジャージを着た、色白のキレイな顔をした男の子がヒガシ(東山紀之)でした。

ある日、ジャニーさんが「スゴいやつが来る」と予告して、現れた少年がいきなりバック転を披露してみせたのですが、その少年がニシキ(錦織一清)だったんです。そこから僕らの中でバック転が流行り、みんな練習をし始めて。当然、僕もできなかったから猛練習しましたよ。

初めての仕事は『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)での先輩のバックダンサー。練習をほとんどしていないのに、いきなり「出ちゃいなよ」と言われて。びっくりしましたね(苦笑)。

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当時は、先輩のバックをこなしながら合宿所で生活していましたが、毎日が目まぐるしかった。合宿所と言えば、「104事件」という有名なエピソードがあります。冷蔵庫に「104」と書かれたイチゴミルクがあって、「この数字は何だろう?」と思いながらも飲んでいたのですが…直後に気がついたんですよ。104=トシ(田原俊彦)だって。

焦って新しいものを買いに行ったのですが、トシちゃんには「お前か!」と、バレていました(笑)。

逆のパターンも。北海道へ行くと必ず買って帰るメロンゼリーがあって、僕はそれを凍らせて食べるのが大好きだったんです。「1、2、3」と番号を振って冷凍庫へ入れておいたら、途中の数字がいつの間にか抜けているわけ。「誰か食ったろ!」って後輩たちへ尋ねたら、犯人は中居(正広)でした(笑)。

怒るとか、そういうことではなく、「お前か!」と言う状況をみんなが楽しんでいて、先輩後輩との輪をつくり上げていったという感じでしたね。

歌番組、ミュージカル、ドラマ…果敢に挑戦した80~90年代。テレビの影響力の大きさを実感

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そうして1984年にはファーストコンサートを開催し、1日5回公演ということも話題になりました。誰もやっていないことをやろうという前代未聞のチャレンジでしたが、大変さを感じつつも、やり終えた時に「まだまだできる」と思えた。1日5回やったことより、その先にあるものが見えて、次につながるものになったんじゃないか、と。そんな機会を与えてもらったことには感謝しかないです。

レコードデビューした1985年当時は、音楽番組の全盛期でしたね。『夜ヒット』はプロデューサーの疋田拓さんがとにかく怖いから怒られちゃいけないと、常に直立不動だったことが思い出です(笑)。でも、デビュー前から番組に出させていただいたことには感謝でしたね。

初めて番組に出演したときは、フォーリーブスの「ブルドッグ」を歌ったのかな。緊張しすぎて、3人の間隔がめちゃくちゃ狭くなっていて。今思い出しても、よくそんな状態で踊っていたなと思います(苦笑)。

音楽番組で印象的だったのは、「デカメロン伝説」で『ザ・トップテン』(日本テレビ系)に出演した時ですね。「『デカメロン伝説』というのはジョバンニ・ボッカチオの物語の一つで…」と、散々説明したにも関わらず、大きなメロンのセットが用意されていたんですよ。「いやいや、そうじゃないから」と否定しつつ、自分たちが着ている衣装をふと見たら、見事にメロン色で…ということもありました(笑)。

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音楽活動のかたわら、1986年にはミュージカル「PLAYZONE」がスタート。オリジナルで22作品、2004年の「WEST SIDE STORY」も含めて全23作品をやらせていただきました。

「PLAYZONE」は、アドリブの場面でニシキがずっとふざけてたイメージしかありません(笑)。それをヒガシが涼しい顔して見ている、みたいな。

ニシキのすごいところは、話が脱線しすぎて「これ、どうやって戻すんだ?」と心配しても、きちんと本筋へ戻すところ。あれはなかなかできないなと、いつも感心していました。

「PLAYZONE」の中には、後輩に受け継がれている作品もありますが、僕らがやっていた「SHOCK」と(堂本)光一の「SHOCK」はまったく違うものだと考えています。だって、僕らが3人でやっていたことを光一は1人でやっているんですよ。しかも、自分なりにいろいろ研究して、すべてを1人で請け負っている。尊敬しますよね。

1999年には、フジテレビで初の冠番組『少年隊夢』が始まりました。ちょうど長野オリンピックのタイミングで。当時リリースしたシングル「湾岸スキーヤー」の歌詞にも「♪海沿いのTVstation」とフジテレビを指したフレーズがあったんですよね。

お台場の新社屋が完成してまだ1、2年しか経っていない頃だったから、すごくキレイだったな。今じゃこんなになっちゃって…というのは冗談で(笑)。独特な社屋の作りだったので、「あの球体がゴロンと転がり落ちて、シェルターになるんじゃないか」と、みんなで話していたこともありました。

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俳優業では『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)、『さすらい刑事旅情編』(テレビ朝日系)にレギュラー出演して、特に『渡る世間』は20年近く携わる長期シリーズになりました。出演し始めた頃はトレンディドラマが流行っていた時代なので、「僕もそっちに出たい」なんて憧れていたんですけど、今にしてみたら『渡る世間』に出演できて本当によかったと思います。

地方へ行くと、いまだに役名のほうが浸透していて、「英作さんでしょ?」と声をかけられます。具合が悪くて病院へ行ったときにも、そこで出会った年配の女性に「英作さん、やっぱり病院にいるのね」と言われて。いやいや、英作は医師だけど、今日、僕は患者として来てるんですっていう(笑)。視聴者の方にとってはテレビと現実が一緒になっているようで、その影響力の大きさに驚かされました。

「少年隊は青春そのもの」ひと言では言い表せない思い

芸能界へ入ってから約40年、2020年の年末をもって長年お世話になった事務所を退所しました。その間、本当にいろんな経験をさせてもらいましたね。ジャニーさんが僕たちのことを最高傑作と言ってくださったそうですが、実際は怒られてばかりいたし、褒められたことなんて一切ないんですよ。

ある舞台で宙吊りになった時、今みたいに劇場の機構がまだちゃんとできていないものだから、セットにバンバンぶつかっちゃって。ある日、舞台袖で「イテテテ」とやってたら、ジャニーさんが駆けつけてきて、心配してくれてるのかなと思ったら「YOU、プロじゃないよ」って(苦笑)。そんなこともありましたけど、ジャニーさんにはいろいろな意味でのプロ意識をたたき込まれました。

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少年隊というグループへの思いは、ひと言では表せないかな。長かったし、僕にとって永遠に残るものだし。何かをするにあたって、今でも「ジャニーさんだったらどうするんだろう?」と考えるんです。少年隊に対しても同じで、そうやって常に自分の中にあるものなんだろうなと。そこで過ごした時間は青春そのもので、とても幸せなものでした。

バック転?今はもうできないでしょう(笑)。数年前に一度やろうとしたんだけど、「死んじゃったらどうしよう」という不安のほうが勝っちゃって。

ダンスのほうは…(小声で)どうだろう。型なんかは絶対に忘れないものだけど、ただ3分間踊り続けられるかどうかはやってみないとわかりません。「『仮面舞踏会』を踊ってくれ」と言われても、まず振り付けを忘れてますしね。まだ「君だけに」のほうがちゃんと覚えてると思います(笑)。

植草克秀公式サイト公式Twitter公式Instagram

撮影:河井彩美
ヘアメイク:花田紗希

<インタビューの一部を動画でも公開中>

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