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Wednesday, July 15, 2020

山本五十六の死は「自殺」? 部下を「人間」として扱った指揮官、最後の行動:時事ドットコム - 時事通信

「息子を死なせたくなかったら陸軍大学校へ」 無謀な戦争で、山本五十六は何を目指したか から続く

「真珠湾奇襲」の成功によって、日本軍上層部と国民の多くは早くも「戦勝ムード」に浸っていたという。

 ノンフィクション作家・保阪正康さんは著書『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』(角川新書)で、真珠湾攻撃の指揮を行った海軍の連合艦隊司令長官・山本五十六の葛藤に迫る。

◆ ◆ ◆

得意の東條、煽るマスコミ、騒ぐ国民

 日本の軍事指導者たちには、アメリカとの講和などまったく念頭になかった。とにかく戦果があがることをひたすら喜んでいた。この頃の史料を見ても、アメリカに軍事的打撃を与えたというだけで、東條英機は、「日本には天佑神助がある。皇国三千年の歴史では戦争に負けたことのない民族だ」とその周辺で得意になっているだけだった。

 戦果をすぐ陛下にご報告しろと、そればかりを口にしていた。この時期日本のジャーナリズムは国家宣伝省にすぎなかったが、連日国民の士気を煽り立てるニュースを垂れ流し、それを知った国民は万歳、万歳の大騒ぎ。一般国民だけではない。太宰治や伊藤整といった知識人たちも、大国・アメリカからの強権的な圧迫から解放してくれたとして戦争を賛美しつづけた。

 このような事態を見ると、軍事指導者はすっかり救国の英雄の如き錯覚をするだけでなく、日本は世界全体を支配できると考えるようになった。実際に、日本軍はオーストラリアの近く、東南アジア全域に兵を送った。太平洋の地図を見ていただければわかるが、誰もが知っている有名な戦場のミッドウェー島はハワイの近く、マーシャル諸島やトラック島は赤道のすぐ北、ガダルカナル島においてはもう南半球である。太平洋の遠くの果てまで、日本軍は派兵していったのだ。

開戦半年で虚偽の大本営発表

 だがここまで戦場が広がり、兵站が延びきってしまったら、基礎的な国力に勝るアメリカが本格的に反転攻勢をかけてきたら守れるわけがない。そんなことすらも考えられないほど、日本中、上から下まで浮かれっぱなしで、冷静な判断をしようとすらしなかった。

 例えば、海軍の軍令部のエリート参謀たちは、フィジー・サモア作戦というアメリカとオーストラリアを断ち切る作戦をやりたいといってきた。しかし、山本五十六はそれはダメだと主張する。山本はアメリカの太平洋艦隊を一気に叩くべきと考えていた。

 そんなことを論議しているうちに、昭和17年4月18日、アメリカのドゥリットル隊のB25爆撃機16機が東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃した。この本土初空襲で死者は50人。開戦から半年足らずのことだった。この空襲に対し大本営発表は、敵機9機を撃墜と虚偽発表を始めている。

 

責任を逃れたい軍事指導者の心理

 このドゥリットル隊は、日本本土から1200キロ沖の洋上に浮かぶ空母より発進し、2000キロ先の中国大陸まで飛ぶコースをとったのだが、そもそも日本の軍事指導者たちにはこのような攻撃にたいする認識がまったくなく、防衛は完全に後手に回り、以降、戦争の実情を知らなかった日本人は、イヤというほど戦場体験をすることになるのである。山本はそのことを理解していたように思うのだ。

 緒戦の戦況の変化を見ていると、日本軍は破竹の勢いで東南アジア各地に進撃したことがわかるし、その成功は日本の奇襲攻撃にまだアメリカも戦時体制を整えていなかったからとも言えた。

 しかし私はこのような戦況をなぞりながら、これは戦況についての推移でしかなく、こうした戦況の陰にある戦場の指揮官と兵士の間の動きを見るという視点は失ってはならない、との思いをもつ。つまり、軍事指導者が戦勝に浮かれるのは、本来戦争がもつ残酷な側面(それは兵士が、あるいは国民が死ぬということなのだが)を忘れようとするからではないかと思われる。国民に甘い幻想をふりまくことは、軍事指導者の責任逃れという一面がある、ということだ。

軍上層部への不信、国民の軽薄さへの憂い

 山本はこのような増上慢に不満を持ち続けていたことが明らかになっている。軍の上層部とそれに踊らされる国民への不信感である。半藤一利の『山本五十六』には、そのような山本の姿が次のように書かれている。山本は「絶望的な日本人論」をもっていたという。

 海軍中央に不信を持ち、麾下の艦隊幹部の能力を疑い、そして日本民衆の軽薄さを憂慮し、山本は負けるが必然の戦いを、一人で、悲壮に戦っていたのではあるまいか。山本はよく冷笑して言っていた。

「扼腕憤激、豪談の客も、多くこれ生をむさぼり、死を畏るるの輩」(半藤一利『山本五十六』平凡社)

 山本が、自らの部下に対して厳しさと温情とで接したことはよく知られているが、戦争初期のなかでいつの日か軍事指導者が部下や日本人を見捨てること、「生をむさぼり、死を畏るるの輩」がそうした連中であることを知っていたのではないか。私はそこに山本の人間的な側面を見るだけでなく、戦場の指揮官と兵士との信頼に似た関係を見出すのである。

 

山本五十六は自殺か?

 さて、話をもう一度山本に戻すが、アメリカによる初の本土空襲のとき、空母の艦載機からの爆撃を想定していた山本五十六もさすがに強いショックを受けた。以前より計画していた、アメリカの空母を撃沈してハワイ攻略を進め、講和に持ち込むというミッドウェー作戦に改めてこだわった。昭和17年6月に実際に海戦を行うが、情報収集に長じるアメリカ軍の待ち伏せ攻撃を受け、海軍は壊滅的な打撃を受ける。海軍軍令部はこの敗戦を、国民はもとより、天皇にも十分伝えず、そして陸軍にも連絡しなかったのである。

 ミッドウェーの敗戦に山本は責任をとっている。軍人としては、致命的な敗北の批判を受け入れなければならない。その後山本は、連合艦隊司令長官として、ラバウルにあったいくつかの海戦を指揮したが、昭和18年4月に「い号作戦」実施のために前線の視察を希望した。その前線はアメリカ軍の対戦闘機の行動半径内であることもわかっていた。山本は視察中止を求める参謀の声に抗してその視察に赴いた。

山本五十六

 なぜ山本は前線の視察に赴いたのか。

 本来なら最高司令官は、そのような危険の多い視察は行わないことが普通だった。い号作戦は、ラバウル周辺の制空権、制海権を確保する意味をもっていた。それが戦線の延びきった日本の避けられない戦略だった。山本は自ら「一年は暴れてみせる」と言ったが、その一年が過ぎて、日本軍は戦時体制を整えたアメリカ軍に抗するために占領地域を絞り込む、あるいは縮小の方向へと舵とりをしようとしていたのだ。

可愛い部下に「さらば」を告げる

 その時に延びきった戦地にいる兵士たちは、切り捨てのような運命をむかえかねない。その兵士たちに何らかのメッセージを伝えなければならない。山本の前線視察には、そのような意味があったと思われる。

 半藤一利は前述の書(『山本五十六』)のなかで、次のような見方を示す。

 真の山本の心は、裂けんばかりに悲痛なものであったと思われる。この作戦が終了すれば、自分の権限と責任において一気に後方に退いて、戦線をぐんとしぼる覚悟を秘めている。そのために、ソロモン諸島に展開し奮戦している第一線基地を敵中に捨て石にして残し、見殺しにすることも辞せぬのである。

 “情の人”山本が、その情を殺し、一軍の将として部下にすべて死ねと命ずるにひとしい。それをあえて断行するのである。

 4月18日に予定されている前線巡視は、い号作戦終了後の激励でも慰労でもない。かれにとっては、それは可愛い部下に永遠の別れを告げにいくことなのである。心を鬼にして「さらば」の一言を告げにいく──だれが反対しようと、止めようと、そうすることがおのれの義務と、山本は深く心に決していた。

 

国民にも隠された「英雄」の死

 ここに山本の本音が明かされているように、私も思う。部下に電報一本で命令を伝えるのではなく、自ら足を運んで別れを告げる。それが山本の真意だった。

 そして山本五十六は、ドゥリットル隊の本土空襲からちょうど1年後の昭和18年4月18日、ブーゲンビルの上空で撃墜死する。その死は、1か月以上も国民に伏せられた。戦後になって、山本の死は戦死ではなく、むしろ自殺だったという説も囁かれている。

 それは、なぜか。

 前述した通り山本五十六は、おそらく一番アメリカのことをよく知っていた日本の軍人だった。それが、「1年なら暴れてみせましょう」という発言になったわけだが、真珠湾攻撃を成功させた山本の国民的人気は非常に高いものがあり、帝都が爆撃を受けても、彼は希望の星だった。そのような人間が、そして連合艦隊司令長官という要職にある人間が、なぜわざわざ危険な前線のブーゲンビルに視察に行って、兵士たちを励ますなどということをやったのか。また、周囲はそれを止めたのにもかかわらず、山本は強硬に視察に行くことを主張して、あっけなく死んでいった。

兵士を人間として扱った山本五十六

 それゆえに、山本五十六の死は自殺だという説が出るのだろう。

 同時に、なぜ軍事指導者たちはその死を隠したのか。むろん国民の士気が落ちないようにとの配慮もあるだろうが、真の理由は軍事指導者たちが激戦地の兵士に気軽に命令をだし、時には兵士は虫けらのように扱ったにもかかわらず、山本は決してそのような扱いをしなかった、そのことを国民に知らせたくなかったのかもしれない。いや、私にはそうも思えてくる。

 山本が今なお国民的人気があるのはいくつかの理由がすぐに挙げられるが、もっとも大きいのは兵士を人間として扱い、自らもまたそのために兵士への礼節を尽くしたということであろう。それが現代の者にも受け入れられているのだ。

 私たちはその視点で改めて戦争の責任者、戦場の責任者が兵士をどのように見つめていたかを、太平洋戦争下の戦況ごとに整理してみることが必要ではないか。

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