第46代アメリカ大統領にジョー・バイデン氏、副大統領にカマラ・ハリス氏が就任した。就任式で、二十二歳の青年桂冠詩人アマンダ・ゴーマン氏が自作の詩The Hill We Climb(わたしたちの登る丘)を朗読し感動を呼んだ。
就任式に詩人が自作の詩を朗誦するのは、一九六一年のジョン・F・ケネディ大統領就任式以来の慣わし。この時にはロバート・フロスト氏がその任につき、The Gift Outrightを詠唱した。クリントン氏の第一期大統領就任時には、黒人女性詩人のマヤ・アンジェロウ氏が招ばれ、On the Pulse of Morningを捧げた。
今回のアマンダ・ゴーマン氏の二十二歳というのは歴代最年少になるという。彼女はどんな詩を読んだのだろうか? 無数の読みを喚起する暗示や比喩や引用に満ちた詩であり、専門家による読み解きはたくさんあるだろうから、本稿では翻訳者として気になった点を見ていきたい。
細部から全体にまで驚くべき精緻な構成をもつこの詩は、反転と対照から成る。暗から明へと。過去から未来へと。
厳しい批判も自省もある。それは特定の党派に向けられたものではなく、国民全体で共有されるべきものとして提示される。
語と語、フレーズとフレーズ、モチーフとモチーフが、ネガティヴからポジティヴへの転換を繰り返し、悲嘆から希望へと向かおうとする一つのテクストを織りなしている。詩のコンポジション自体がメッセージとなっているのだ。これは、光射す未来を目指そうとする詩人の強い意志が紡ぎだした文体なのだろう。
先鋭なリズムと反転
詩中で強く訴えられることの一つは、アメリカという国の団結であり、絆だ。これがメッセージの要諦だが、それに伴い、ゴーマン氏が視覚的イメージを駆使して鮮明に描きだしたのは、この日を迎えるまでに米国が経験してきた試練と惨状だ。そこには、前トランプ政権のみならず、いまのアメリカという国に対する峻厳な批評や問いかけも含まれているだろう。過去のつまずきから目をそらさず直視する一方、未来に向けるまっすぐな眼差しに打たれた。
シンコペーションの効いた先鋭なリズムにのせて、ゴーマン氏は朗々と詠じた。まず、詩の押韻や韻律に関して書くと、中間韻(行頭・行末ではなく中間で踏む韻)、とくに語頭で韻を踏む頭韻が耳に残った。たとえば、こんな箇所だ。
①That even as we grieved, we grew.
②That even as we hurt, we hoped.
③That even as we tired, we tried.
④That we’ll forever be tied together, victorious.
上の①ではgrieved, grew、②ではhurt, hoped、③ではtired, tried、④ではtied, togetherで、それぞれ頭の音をそろえている。しかも、④を除いて、対向する含意の二単語を対置している。「悲嘆の時にあってさえ、成長した」「傷つきながらも、希望をすてなかった」「疲れ切っても、力を尽くした」--「悲嘆する・成長する」「傷つく・希望する」「疲れた・努めた」という対照だ。つらく暗澹たる時代の後に、人びとの努力によって明るい時代が到来することを示唆する、あるいは願うものではないだろうか。
こうしたイメージのシフトは詩全体の特徴であり、反転と対照化が繰り返されることになる。
*ちなみに、英文学者の阿部公彦氏は、「構文や響きが「前がかり」なのがおもしろいです。 脚韻もあるけど、頭韻や行頭の繰り返しが強烈。 頭で音をそろえると、明瞭で前向きな「行動性」がでますね」と、twitterで分析している。ぜひご参照いただきたい。
鋭い批評性に、あの日のこだまが響く
全文翻訳するには翻訳権が必要なので、原文の意を補いながら飛び飛びにご紹介する。まず冒頭から。
(朝が来てもわたしたちは自問する。この涯(は)てなき暗がりのどこに光を見出せというのか? 損失を負いながら、荒海を渡っていかねばならないのだ)
When day cameと明るい言葉で始まりながら、これまでのアメリカの苦難をほのめかす言葉がつづく。
We braved the belly of the beast.
ここも語頭にbを連続させている。The belly of the beast(獣の腹)とは「耐え難いほど不快な場所」、あるいは「悪の巣窟」といった比喩表現。悪者たちの跋扈する過酷な世の中に果敢に立ち向かってきた、ということだろう。批評性の高い一行だと思う。
The belly of the beastは、もともと旧約聖書に由来する。神の言いつけに背いた預言者ヨナが大きな魚に飲まれてしまう、その「魚のお腹」から来た言いまわしで、のちに意味が転じた。ちなみに、9.11で破壊されたロウアー・マンハッタンのワールド・トレーディング・センター一帯は、当時、一部のニューヨーカーたちに”the belly of the beast”と呼ばれるようになったという。ある意味、アメリカにとってこの数年間は、テロによる分断と試練の時にも似ていたかもしれない。
遊び心と辛辣な暗示
この詩には(詩なので当然だが)言外の仄めかしや暗示がふんだんにある。
(わたしたちはこういう国と時代を継承していこう――痩せっぽちの黒人の少女、奴隷の末裔でシングルマザーに育てられたそんな娘も、大統領になる夢を見られるような。もっとも(その子は目下)大統領に詩を暗唱する側にまわっているけれど)
ここは、なかなかお茶目とも、メタな自己言及とも言える表現である。詩句のなかに、かつてのアマンダ・ゴーマン自身を思わせる少女が出てくるのだ。就任式の中継カメラも、朗誦を聴く大統領夫妻の反応を映しだしていた。
ゴーマン氏の母は学校教師で、シングルペアレントとして三人の子どもを育て、ゴーマン氏はその背中を見ながら、「リテラシーの重要性を痛感し、教育は人生の死活問題となる」と考えていたという。母は子育てと教職を続けながら、教育学の修士号、博士号を取得し、ゴーマン氏はのちにハーバード大学に進むことになった。
(だから、うつむけた顔をあげ、人と人を分かつものではなく、わたしたちの先にあるものを見つめよう。人びとの間に入った亀裂をふさごう。未来を第一に考えるなら、互いの差異はまず脇におくべしと知っている(学んだ)のだから)
lift our gazeと言うからには、それまで俯いた状態だったことをほのめかしている。社会が分断を露わにし、項垂れる日々だったと。これも自国アメリカへの省察だろう。
次の行でさり気なく、put our future first,という語句につなげていることにも注目したい。当然ながらこれは、トランプ氏のモットーであった”America, first”を意識した語句だろう。さらに興味深いのは、to put our future first, we must first put our differences aside. と、ちょっと回文のような語順をつくりつつ、firstを畳みかけていることだ。
(武器を置こう。互いの体に腕をまわせるように。だれも傷つけず、皆が調和する社会を目指そう)
ここにも掛け言葉がある。lay down our armsのarmsは「武器・兵器」のこと。この意味で使うときには、つねに複数形になる。しかし、つぎのreach out our arms to each another.のarmsは「腕」の複数形だ(二つのarmは語源的に異なる経路をもつ)。
ここでも鮮やかな転覆およびコントラストが見られる。同音同綴の語で、「敵対から友愛」へと意味をひっくり返しているのである。この詩における「反転」は、つねにネガティヴなものからポジティヴなものへという方向性をもつことに留意したい。
視界が開け、光が射す
タイトルとなるフレーズが出てくるくだりだ。「だれもが各自のぶどうやイチヂクの木の下に座り、だれにも脅かされることのない」というのは、旧約聖書ミカ書 4:4から、ほぼそのままの引用で、現代では、sit under one's vine and fig treeは「安全な我が家で」といった意味の常套句となっている。また、このミカ書4章には、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」という一文がある。
3行目は、「勝利は凶刃にあらず、わたしたちが架けてきた橋にある」とつづく。このbladeと脚韻を踏むのがglade(森林間にひらけた土地。元々はひらけているだけでなく陽射しあふれる林間の平地を指した)だ。ここもまた、blade(凶刃)から、glade(ひらけた明るい地)へと明暗が覆る。
暴力ではなく歩み寄りによって関係を築くなら、「わたしたちの登る丘には、ひらけた約束の地がきっとある。登る勇気さえあれば」といった意味だろうか。このくだりは媒体によって、書き起こしの単語やパクチュエーションが異なり、解釈の難所だった。
ゴーマン氏は、「これまでの数年は暗黒の時代だった」などとは言っていないが、gladeの一語で視界がひらけるとき、聞き手/読み手は自らが抜けてきた背後の森の深さに思い至るだろう。
なみに、アメリカ建国の精神にもつながるa city upon a hill(丘の上の町)というフレーズがある。新約聖書に由来し、周囲の模範となる自由で公正な信徒の生活を指し、慈愛と慈悲のピューリタン精神を表す。マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』や『誓願』に出てくる究極の隔離政策を打ちだすディストピア国家「ギレアデ共和国」も、この精神に基づいて建国されたと書かれているが、なにしろ、先日の暴動のように連邦議事堂を襲撃して、政権を転覆させ成立したのが「ギレアデ」なのだ。じつに皮肉な書かれ方である(いきさつは『誓願』(早川書房)に詳しく書かれています)。
ここは、かなり具体的なイメージを喚起するくだりだ。「国を分かち合うより、ばらばらに砕こうとする勢力をわたしたちは見てきた」と言っている。「民主主義の足を引っ張る目論見であるなら国自体を破壊しかねない勢力を。その企みは危うく完遂するところだった。しかし民主主義は折々に足止めされることこそあれ、終の敗北はあり得ない」と。ゴーマン氏は「この数日、数年の過去に、自ら注釈をつけるつもりで向き合う」ためにこの詩を書いたと言っているが、ここのくだりはその姿勢が顕著に表れ、「暗示」の手法から「明示」のほうへ軸足を移している。
おっと、「わたしたちは未来に目を向け、歴史はわたしたちを見張る」の後半部分はアメリカ建国の歴史を描いた大ヒット、ヒップホップ・ミュージカル「ハミルトン」からの引用だろうか。ゴーマン氏には発話障害があったが、とくにRの音を練習するために、このミュージカルの劇中歌 Aaron Burr, Sirを聴きこんで克服したのだとか。
そして、人びとは火影から踏みだす
(朝が来たら、わたしたちは火影(ほかげ)から臆さずに踏みそう。新しい夜明けは、わたしたちが解き放てば、みるみる昇っていく。光はつねにそこにあるのだから。わたしたちにそれを見る勇気、いや、光そのものになる勇気さえあれば)
冒頭と同じWhen day comes,のリフレインだ。しかし、最初はnever-ending (終わらない)と表現されていたshadeから「臆さずに踏みだす」のだと明言している。詩全体としてとらえても、冒頭の弱く、揺らぐ気持ちから、強く、自信に満ちた気持ちへの移り変わりが見てとれる。
また、「新しい時代の夜明け」がballoonのイメージで表象され、冒頭では「どこに見出したらいいのか」と不安げに語られていたlightは、「つねにある」と宣言される。さらに、brave enough to be it.で、自分たちが光そのものになろうと呼びかける。これも、同じ語を使った鮮やかな肯定への転換である。
ここに、この詩の反転と対照の構図は完結を見たと言えるだろう。
恐れ、踏み迷うアメリカの姿から出発し、少しずつ自信をとりもどして回復に向かい、最後には、友愛に満ち、多様で理知的なアメリカの像を投射して終わっている。それは美しいプロジェクションでありながら、その完璧さゆえに、この国が被ってきた深い傷と亀裂を実感させる。
アメリカの惨状を直視するところから、まっすぐに未来に向かっていこうとする詩だ。しかし冒頭から繰り返された転換の力は、ひとつ間違って逆方向に働けば、たちまち明から暗へとドミノ倒しのように裏返っていくだろう。その危うさを詩の構造そのもので表してもいるのである。
The Hill We Climbには多分に理想主義的なところもあるだろうが、いまのアメリカにあらためて必要なものは、シニシズムではなく、こうした理想主義ではないか。下衆な本能を解放するばかりでは、人は獣にもどってしまう。多くの聴き手/読み手にこの詩が届きますように。
*訳文はいわゆる逐語的な訳ではなく、説明を交えた補完訳になっています。ご了承ください。
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